128 2024年06月 いつもなら「名料理、かく語りき」は飲食店が作る料理を紹介するのだが、今回は趣を変えてGW前後催されたある食事会について話したい。「正しいすき焼きの作り方会」は、コルトレーン研究家の藤岡靖洋さんが主催するもので、15年ぐらい前から親しい人達を集めてすき焼きの作り方を伝授し、すき焼きの本当の旨さを知ってもらおうと企画している。今年のGW前に新古敏朗さんから「一緒に参加しませんか」と声掛けがあって私も連れて行ってもらった。藤岡さんは、とにかく正しいすき焼きとは何かにこだわっている。割下を使うり方を「あれは、すき煮や!」と間違いを指摘し、牛肉を予め焼くのがすき焼きと主張しているのだ。しかもそれを行うのが飛田新地にある「鯛よし百番」なのも面白い。今回は、すき焼きとは何か?を論じながら、「鯛よし百番」の話も交えてGW中に私が参加した「正しいすき焼きの作り方会」についてレポートしよう。

鯛よし百番 藤岡靖洋
(コルトレーン研究家)
「色んな醤油を試したが、
『生一本黒豆』は、味が深く、
コクという点では、
五歩も十歩も先んじており、すき焼きにはぴったり」

GWに「正しいすき焼きの作り方会」に参加した

円安の影響もあって街中には外国人観光客が溢れている。彼らからすれば、日本らしい料理は「寿司・すき焼き・天ぷら」だとか。中でも「すき焼き」は、日本で生まれた料理(寿司はルーツを東南アジアに持ち、天ぷらはポルトガルからの影響である)で、かつて坂本九が「上を向いて歩こう」を米国でリリースする時に「sukiyaki」とのタイトルになっていたことからも日本の象徴の料理だというのがわかろう。ところが、すき焼き本来は、鍋で焼く料理であるはずなのに、作りやすいとの理由から割下を用いる傾向にある。牛肉を焼いて醤油・砂糖で調味するやり方は、日に日に薄れて行く嫌いがあって、いつしか関東風の割下を用いる作り方が幅をきかせているのだ。グルメでも知られる藤岡靖洋さん(コルトレーン研究家)に言わせれば、「割下で作るのは、好き煮」だそうだ。彼は、そんな巷の風潮を危惧してか、15年ぐらい前からGW前後3週間、飛田新地にある「鯛よし百番」の桃山殿を借りて「正しいすき焼きの作り方会」を催している。そこでは、藤岡さんがこだわった材料で、関西で生まれた正しいすき焼きの手法を用いてすき焼きを鉄鍋で調理。そして参加者で味わう_、そんな単純な内容だが、実に面白く、参加者からは「これは旨い!」との声が続出している。主催者の藤岡さんは、各テーブルを回って作り方を指導。その通りに作って食べると、「割下で作るすき焼きは不味い」という藤岡さんの言葉を実感する。聞けば、毎年この催しに200人以上を集めるという。しかもその参加者が藤岡さんの友人・知人ばかりだというのだから彼の交友範囲の広さにもびっくりする。「今年は200人が参加。昨年は330人が来てくれました。コロナ禍でも一回だけ休んだだけで、ずっとそのくらい友人が来てくれています」というからその人気ぶりもわかろう。藤岡さん曰く「人数が多いと各テーブルを回って丁寧に教える暇がなく、ある所は肉が焦げているし、ある所は煙が出ているし、中にはすき煮の如く割下状態になっている所もあってそれでは正しい作り方ができておらず何していることかわからない。だから今年は人数を絞って開催したんです」と話していた。それにしてもGW前後3週間だけで200人とは恐れ入る。

藤岡さんが指摘するようにすき焼きとは、鍋で牛肉を煮るのではなく、焼いて作るのが本来のやり方だ。そもそもすき焼きは、幕末に始まった。牛肉や豚肉を食べなかった日本に西洋の肉食文化が入り、食の西洋化よろしく誕生したものである。肉を焼く関西と割下で作る関東では、そのルーツが違うのだから調理法が分かれるのも仕方がない。江戸中期には、農器具の鋤の背で魚や貝などを焼き、それを魚すきと称していた。江戸末期には、関西で魚すきなる料理が登場する。浅めの鍋で魚介類を醤油などで処理したもので、初めは煮物に近いものだったという。魚すきの「すき」は、剥き身(薄り切り)を意味しており、これが今でいう魚すきなどの鍋料理に発展する。この魚すきと区別するために、鋤の背で焼いたものは、すき焼きと呼ばれた。江戸期の終わりから明治期の初めにかけて牛の剥き身を醤油・みりんで調味した料理が生まれる_、それがすき焼きのルーツなのだ。その名称が示す通りに焼肉に近い食べ方をする料理であった。
一方、関東のすき焼きは、牛鍋に端を発する。幕末の慶応3年(1867)に牛鍋屋がお目見得する。牛鍋はどちらかというと味噌で調味して食べる。中には醤油で調味する店もあったらしく、鍋に割下を注ぎ、肉や野菜を入れてグツグツ煮る。鉄鍋にざらめ(砂糖)を撒き、牛肉を入れて醤油を掛けて食べる関西のすき焼きとは別物なのだ。
明治5年(1863)に宮中で明治天皇が牛肉を食したことで、巷では肉食解禁が伝わり、一気に牛鍋・すき焼きの需要が高まって行く。東京・横浜には牛鍋屋が多くできていたのだが、関東大震災でそれらが大打撃を受け、牛鍋屋が潰れてしまった。そこに入って来たのが関西のすき焼きで、いつしかそれらが融合し、割下を用いる作り方を関東では、すき焼きと呼ばれるようになってしまった。最近では、割下を使う方が味が一定しやすいと関西でも割下を用いる店が増え、それをすき焼きと呼んでしまっている。藤岡さんは、そんな間違いを正すべく、一石を投じるような食事会を企画したのであろう。

少々蘊蓄が長くなってしまった。話を本(もと)に戻そう。藤岡さんの肩書きをコルトレーン研究家としたが、彼は、モダンジャズのサックス奏者であるジョン・コルトレーンの本を書いている。英語でも3冊出版しており、岩波新書から「コルトレーン、ジャズの殉教者」を上梓しているほどだ。本来は着物の販売の仕事をしているらしいが、趣味が高じて黒門市場の近くにコルトレーンハウスなる遊び場まで設けている。1階には重さ300㎏のスピーカーを配していたが、新世界の下駄屋さん「澤野工房」に売却。
ロベルト・オルサー・トリオを紹介して「澤野工房」より6枚目のCDを製作中とかで、とにかく幅広い。そんな藤岡さんが「正しいすき焼きの作り方会」を企画したのは、三つの要素が揃ったから。一つは、「鯛よし百番」に鉄鍋があったこと。普段同店では割下ですき焼きを出している。藤岡さんは、どうしても正しいすき焼きを伝授するには鉄鍋の鉄イオンが必要であると考えた。その手の作り方だと油は飛び散り、煙が出たりで、店側は掃除が大変になる。「イベントが終わったその日は、店のスタッフが雑巾で畳をきれいになるまでふいている。それは大変な作業で主催者側も頭が下がる思い。そんなことをしてまで許可してくれる『鯛よし百番』が借りられるのが理由の一つです」と説明していた。
二つ目は、飛田新地という立地。飛田新地は、かつて遊郭があった色街。明治45年(1912)に難波新地が大火に見舞われ、その後焼跡で妓楼の許可が出なかった。天王寺村に代替地を求めた妓楼は、大正4年(1916)に指定を受け、そこに遊里を建設する。飛田新地は、最も新しくできた新地で、当時は22600坪の規模だったそう。第二次世界大戦後に遊郭は廃止されたのだが、今でもその名残りがある。江戸期の吉原のような雰囲気が今も伝わって来る不思議な町なのだ。「鯛よし百番」は、かつての遊郭を今に伝える建物で有形文化財に。現在は飲食店として営業している。
「三つ目は、『鯛よし百番』にはもう『サントリーモルツ』は置いていないんですが、私が特別に取り寄せてもらっていることです」と笑う。何でも藤岡さんは、麦芽とホップで造ったものしかビールと認めていないらしく、「モルツ」がそんな造り方なので気に入っているようだ。「とにかく有形文化財なのに鉄鍋で牛肉を焼かして欲しいと頼んで許可してくれたんですから」と「鯛よし百番」の存在を強調していた。

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 食材もさることながら美味しいすき焼きを作ろうとなると、調味料を選ばねばならない。醤油・砂糖・糸コンニャク、通称「調味料セット」が肝心なようだ。ここでの醤油とは、湯浅醤油の「生一本黒豆」を指す。藤岡さんと新古敏朗さんとは25年前からのつきあい。ルフトハンザ航空のパーティで知り合ってから、湯浅醤油の商品も知った。「いい醤油を造る会社で、『生一本黒豆』がなければ、うちのすき焼きは始まらない。家で湯浅醤油全商品の比較実験会をやったら、すき焼きには『生一本黒豆』が一番合うとわかったんです」と言う。理由は、「味が深いから」だそう。「生一本黒豆」は、黒豆を原料に約二年間杉樽で熟成させている。濃い味わいが、肉や黒糖に負けないから用いるのだろう。「コクといえばコレ。その点では、『生一本黒豆』は五歩も十歩も進んでいる」と絶賛していた。

コ-1

砂糖は、多良間島の粉黒糖を使っている。沖縄の多良間島産サトウキビ100%の純黒糖を粉にしたもので、甘みは強(きつ)くないが、しっかりした味を持っている。この二つがすき焼きの調味料としての必需品なのだ。
ここに奈良五條「播本商会」の糸コンニャクが加わる。糸コンニャクというと、普段は粉で製造するが、ここの商品はコンニャク芋100%で造っている。実に歯応えがよく、味もしっかりしており、もはや脇役とは呼べないほどの主張を放つ品だ。「当初は店で糸コンニャクを用意してもらっていたのですが、三年前に『播本商会』の糸コンニャクを知り、『鯛よし百番』に無理を言って持ち込ませてもらっているんです」。それともう一つ「長文屋」の七味唐辛子も忘れてはならない調味料だ。「長文屋」は、京都北野天満宮近くにある七味屋で、店主がゴリゴリとすり鉢で擦って七味を作っている。七味といいながらも八種類を調合しており、藤岡さんは、中辛を頼んで大袋を買い込み、この食事会に持ち込んでいる。「以前は自分で三重県名張市まで行って唐辛子をもらって来たんです。天日乾燥し、ゴーグルやマスクをつけて切っていたんですが、それはそれは大変で。そんな時、『長文屋』の七味に出合い、コレなら使えると思い京都まで買いに行ってます。参加者からの評判も上々で、『売って欲しい』との声もあったので来年は調味料セットに加えるかもしれません」と話していた。
こんな話からもわかるように藤岡さんは、半持ち込み状態で「正しいすき焼きの作り方会」を催している。主材料の肉や野菜は「鯛よし百番」で用意してもらっているものの、「麩は汁を吸ってしまうから省いて」とか「豆腐は焼豆腐を」とか、「葱は筒状に切って」とか細かい注文をつけているようだ。葱を斜め切りにすると、液が出てしまい、繊維が残るだけと嫌っているからだ。「牛肉は普段とは異なりサーロインを使っているから注文は出していませんが、このように細かい指定を入れ、ないものは自分で持ち込む_、そうしないと思ったようなすき焼きにはなりません」。

すき焼きだから当然牛肉は焼いて焼いておく

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花街の遺風漂う飛田新地で、遊郭の趣が今なお残る「鯛よし百番」に入ると、「顔見せの間」と呼ばれる所があって襖には「松に白鷹」図の嵌込(はめこみ)絵が見られる。横には日光東照宮陽明門を模した部屋が_。入口左には鳳凰が描かれ、上には唐獅子の彫り物、天井には龍の絵があって左甚五郎「眠り猫」のそっくりさんもこの陽明門にある。太鼓橋を渡ると、「桃山殿」と呼ばれる三つの部屋があって、その牡丹・鳳凰・紫苑殿の三つの部屋を藤岡さんが貸り切って「正しいすき焼きの作り方会」が催されている。

同催しでは、テーブルに牛肉・野菜・調味料セットが置かれており、藤岡さん指導のもと、おのおののグループですき焼きを作ることになっている。

作る手順は、まず鉄鍋に牛脂を塗って油をなじませる。鍋がぬくもり煙が出て来たら、ガス火を少し緩めて牛肉を何枚か入れる。黒糖小さじ一杯程度を加え、「生一本黒豆」(醤油)を注ぐ。「牛肉に黒糖と醬油をそれぞれ大匙一杯掛ける」のがいいらしい。混ぜたらその肉を食べ、味の加減を判断する。もし甘ければ醤油を足せばいい。味見は一枚だけで、鉄鍋で同じように黒糖と醤油を加えながら肉を焼いて行く。焼けた肉は食べずに皿に移す。ここが、「正しいすき焼きの作り方」のミソである。肉が焼けて皿に移し終えたら、今度は鉄鍋で野菜類を焼く。糸コンニャク、焼き豆腐、葱を入れる。筒状に切った葱は立てて置くようにするのだ。野菜類をぐちゃ混ぜにせず、鍋の中に陣地を決めて各々置いて行くこと。白菜を加えたら黒糖二杯・醤油二杯を焼き豆腐、ネギを中心に掛けるようにして調味する。糸コンニャクは、180度回転させ、常に回すようにして作って行くのが大事。当然、焼き豆腐もネギもひっくり返すのを忘れぬように。ある程度野菜類ができて来たら、皿に取り置いていた肉を鉄鍋に戻し、エノキ茸・生麩・春菊も載せる。味を確かめて薄ければ、黒糖や醤油を加えるのが大事。これが藤岡流「正しいすき焼きの作り方」である。

肉・野菜類を食べて具が少なくなりかけ汁が残っている間にうどんを投入。黒糖一杯と醤油一杯を加え混ぜて少しだけ残しておいた焼いた肉を加える。卵は、漬けダレには用いず、藤岡流は鍋に入れる。自分の前辺りに空間を設けてそこに卵を挿入し、強火に。そして肉で蓋をする。ここで、「長文屋」の七味唐辛子(本当は八味唐辛子だが)が登場。卵は自分のタイミングで食べるべし。生が好きなら早めに引き上げ、硬めがいいなら火を通してから食べる。

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会は、和気藹々(あいあい)に楽しく進行するが、なかなか忙しい。やはり美味しく食すには、それくらいの労力を厭(いと)わないといけないのかもしれない。もちろん予算が倍以上あれば着物を着たお姉さんが焼いてくれる名店へ行けばいいのだが…。牛肉も野菜類も一杯あったのでお腹はパンパン状態に。まさに幸せの極みである。途中で藤岡さんが趣味深い実験をするために肉を少しだけ用意をしておいてくれた。それは先に肉を焼いてから食べるのと、割下状態で肉を浸して火を入れるのとの違いを実感するためだ。野菜が十分に入って水分が出たら当然鍋の中は、割下を用いたようになっている。そんな時に肉を浸して食べても美味しく感じない。その実験でもあった。割下状態で肉に熱を加えると、出来上がりは何となくふにゃっとなって締まりがない。焼いたものとはかなりの差が生じる。「まさに鍋の中で肉の旨みが出てしまった状態。そんな肉を食べても美味しくないはず。最悪の例はしゃぶしゃぶで、肉の旨みをだしに溶け出させてしまってから食べるのでは旨いはずはない。割下も同様の論理で、だから私はこのような作り方を推奨しているんですよ」。こうして自分の舌で体感すると、まさに理に適った作り方であるとわかる。
藤岡さんは、グルメが高じて15年前から「正しいすき焼きの作り方会」を催し出した。この手のこだわり企画は、黒毛和牛備長炭焼き会から始まったらしい。グルメには、各々に理論があってそれを実践しており、美味しく味わうためには飽くなき追求が欠かせない。そんな光景に遭遇した一夜であった。

  • <取材協力>
    鯛よし百番

    住所/大阪市西成区山王3-5-25

    TEL/06-6632-0050

    HP/ 公式HPはこちら


    営業時間/※今回紹介した「正しいすき焼きの作り方会」は、あくまで「コルトレーンハウス」の藤岡靖洋さんが知人だけを集めて催している企画で、「鯛よし百番」でやっているものではありませんし、一般募集は一切していません。

筆者紹介/曽我和弘
廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。

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