124
鍋が恋しい季節である。水炊き、寄せ鍋、すき焼き、かにすきと鍋は色々あれど、やはり関西人には、てっちりがその王様か。関西人のふぐ好きは有名で、「てっちりを食べないと冬が来た気がしない」と言う者まで出る始末。淡泊で旨みがあるふぐは、淡い味を好む関西人にとっては、たまらない代物なのだろう。今年もまた例年の如く、「さかばやし」にて淡路島三年とらふぐの食事会が開催された。いつもの年より寒くはないといっても、てっちりの声を聞けば食べる気が逸(はや)るのもわかる。そこで今回は、ふぐのエピソードを記す事にした。仮りに読者が、ふぐを食べに行く機会があれば、蘊蓄代わりに披露するのも面白かろう。
- 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
ふぐを食べる事は文化である
「河豚(ふぐ)は食いたし、命は惜しし」_、これは物事をふぐ食に例えた成句である。ちなみに成句とは、古くから習慣的に用いられた言葉を指す。危険を伴う物事の実行をためらう例えで、かつての文化人達がこのように表現し、ふぐの味を伝えて来た。食通で知られる北大路魯山人は、「河豚食わぬ非常識」の中で、「河豚を恐がって食わぬ者は『河豚は食いたし、命は惜しし』の古諺に引っ掛かって味覚上とんだ損失をしている」とまで言い放っているのだ。そう言う者があるかと思えば、夏目漱石は「嘘は河豚汁である。その場限りでたたりがなければ、これほど旨いものはない。しかし、あたったが最後苦しい血を吐かねばならない」と、こちらはふぐ食の恐ろしさを嘘に例えている。
「ふぐを食べる事は文化だ」と言ったのは、確か坂口安吾ではなかったか。古代の事_、ある時、一人の男が奇妙な魚を釣り上げた。その魚はぷっと膨れ、食べると淡泊な身が旨かった。ところがその男は、食後中毒死する。そして「ふぐの目には毒がある」と言い残した。次の男は、その言葉に倣って目の周りは残して全て食べたが、中毒死してしまう。男は言う_、「ふぐの皮には毒がある」と。さらに次の男は目と皮以外を残して食べたが、やはり中毒死する。「ふぐの肝臓には毒がある」と言い残して命を失う。このように次々に毒のある場所が言い残され、その結果、試行錯誤を繰り返す事で我々はふぐ食を楽しむ事ができるようになった。これを文化と呼ばすして何としよう。坂口安吾はそんな風に語りたかったのだと思われる。大阪府のサイトには、「一般的に食べられているとらふぐであれば、筋肉・皮・精巣は食べる事ができます。しかし、ふぐの種類によっては、これらの部位にも毒があるので、種類別に食べられる部位が決められています」と記載されている。そして「可食部位以外の部位(眼、脳、エラ、内臓等を含む)は、食用として認められておらず、特に肝臓や卵巣は毒性が強いため危険です」とある。かくの如き毒性の部位を回避して調理するためには、料理人はふぐ調理の免許(ふぐ取扱資格)がいるのだ。ふぐ中毒で有名な話は、昭和50年に京都で起こった8代目板東三津五郎の事件。料亭で肝を四人前食べて中毒死したとか。板東三津五郎が渋る板前にねだった事から中毒死が起きている。料理人はふぐ調理師免許を持っていたそうだが、「もう一皿」とねだった板東三津五郎の注文を断り切れなかった事で悲劇を呼んだのだ。まさに「河豚は食いたし、命は惜しし」の分かれ道を彼は戻り切れなかったのだ。
福良港の養殖ふぐが兵庫県の名産品に
ところで私は、毎年12月に「淡路島三年とらふぐ」の食事会を企画している。毎年毎年盛況で、募集するとあっという間に集まる人気食事会でもある。関西人のふぐ好きは有名で、20年ぐらい前には、ふぐの消費量の約6割は大阪府下で占めるとのデータもあった。最近は首都圏辺りでも高価ながらふぐ料理がよく食べられているらしいから少しは減ったかもしれないが、さりとて関西圏での消費量は、まだまだ高いと聞く。「てっちりを食べんと、冬が来た気がせん!」_、関西人はそのように言って冬にはふぐを食しに出掛けるのだ。この言葉からふぐがよく食べられていることも頷ける。
近年、とみに人気が出ているのが、淡路島三年とらふぐであろう。ふぐの養殖は、長崎県が圧倒的に多い。次いで熊本県、大分県、佐賀県と九州勢の生産量が高い。兵庫県も全国の3.7%で6位にランクインされており、その生産地が南あわじ市になっている。この数字は、福良港の淡路島三年とらふぐの養殖から出たものだ。それくらい三年養殖のふぐが成功しているといえよう。福良でふぐの養殖が始まったのは、1980年代。ふぐ養殖といえば、色んな地でそれを導入しており、珍しいのでは海のない所で行っている例もあるくらい。そんなライバル達に対抗する目的もあったのか、他産地と差別化するために2000年代前半に手間のかかる三年養殖のブランド化を行った。一般的にふぐの養殖は二年である。二年間育てて800gぐらいの大きさになれば出荷する。福良漁港の前田若男さん(若男水産)は、もう一年余計にコストをかけ育てることにした。三年養殖したものは、1.2〜1.5kgぐらいの大きさになり、身の弾力性もよくなるという。大きくなって旨くなるならば、他も三年間育てればいいではないかと思うだろうが、それは素人考えで、かなりのリスクを覚悟せねばならないのだ。福良港沖に浮かべた養殖場でふぐを育てているが、噛み合いを防ぐため、一旦プールへ移し、一匹ずつ歯を折って生簀へ戻す。そうしなければ噛み合って互いを傷つけるばかりか、死んでしまうふぐが沢山出るそうだ。福良漁協によると、毎年約25万匹ものふぐの稚魚を仕入れるらしいが、三年ものとして出荷できるのは約10万匹。それくらいリスクが伴う仕事なのだ。
今年も「さかばやし」にて淡路島三年とらふぐの食事会が催された。その時、同店の大谷直也料理長が作ったのは、先付(とらふぐ皮煮凝り)、造り(とらふぐ薄造り)、揚物(とらふぐの唐揚げ)、箸休め(とらふぐ炙り寿司)、主菜(とらふぐてっちり鍋)、雑炊の献立であった。今回使用した写真は、その時の「淡路島三年とらふぐとしぼりたて新酒師走を楽しむ会」のものである。流石にふぐのコースだけあって定番(てっちり、てっさ、唐揚、雑炊)は外せないと、上記の献立に納まっている。今回は、常連さん以外に新たな参加者もおり、いつもより熱気溢れた食事会になっていたのではなかろうか。やはり関西の冬には、ふぐが欠かせないのだ。
ところで話は天然ものに移るが、海の影響か、他の魚同様にふぐも水揚げ量が少ない。以前は、ふぐといえば玄界灘だったのに、今や例年並みに獲れないらしい。地球温暖化が影響しているのだろう、海中の温度が上昇し、そのために北日本にまでふぐが北上している。気仙沼でふぐが沢山獲れているようだが、北の地の職人(料理人)はふぐ調理に不慣れで、免許取得者も少ないから困っていると聞く。そういえば、水揚げ地第1位に北海道が躍り出て、2位の石川県、3位の愛知県を抜いたと聞く。かつては、福岡県・山口県・島根県辺りだったのが、この数年で様変わりしてしまった。ふぐといえば、西日本の_、比較的温暖な海の産物だったのに、北の魚に変わりつつある。
とは言っても未だに下関ブランドが強い。ブランドから想像すると、関門海峡辺りにふぐがうじゃうじゃ泳いでいるようにイメージするが、さにあらず。ふぐを危険な魚とみなし、禁食させたのは豊臣秀吉だ。朝鮮出兵の折りに名護屋城(今の福岡)に兵を集結して海を渡らせた。その兵達が玄界灘で獲れたふぐを食べて中毒を出した。それに怒った秀吉が「こんな危険な魚を食べてはいけない」とばかりに禁食のおふれを出したのである。江戸時代も「主君に捧げる命を、己の食い意地で投げ出してどうする」と禁食が続いていた。そのタブーを破ったのが、伊藤博文。長州出身で、明治の元勲になっていた彼が下関に戻った時の事。その日は不漁で出せる魚がなかったそう。「せっかく下関まで来て魚を喰えぬとは…」と嘆く伊藤博文に「春帆楼」女将がこっそりふぐを食べさせた。食べた伊藤は「やっぱりふぐは旨い!」と言って下関に限ってふぐ食を解禁した。これが今でもふぐのメッカとして下関が出て来る所以。そんなちょっとした事が名産地に繋がっている。
江戸時代の戯作者・式亭三馬がこんな歌を詠んでいる。「捨果(すてはて)て身はなきものと悟らねと雪の降る日はふぐこそ思へ」と_。これは西行法師(平安〜鎌倉初期)の「捨て果てて身はなきものと思へど雪の降る日は寒くこそあれ」の和歌をもじったものだ。かくして世の文化人達は、ふぐ食を言葉にして楽しんで来た。いつの世も、ふぐは偉大なグルメなのだ。