2018年06月
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 そばと醤油は切っても切れない関係で、銚子や野田に醤油づくりが伝わるようになってからそば人気が沸騰し出す。以前、湯浅醤油の新古敏朗さんが「そばが江戸で流行ったのは醤油が因しているのではないだろうか」と私に話し、一度そばの歴史についてこのコーナーで書いてもらえないかと言っていた。丁度、某そばチェーンの社内研修でそばの蘊蓄を語らねばならなくなったためにきちんとその歴史的流れを調べた。そんなこともあって今回は歴史の分野からそばの話をしたい。但し、これは書き出すと長くなりそうなので今回を第一弾とし、話を江戸で流行するに至った経緯までにする。勿体つけるわけではないが、そばを語れば長くなるのだ。ましてや私の得意な歴史的検証を入れ始めるときりがなくなってしまう。ということで今回は新古敏朗さんの疑問に応える形で文章をまとめてみる

  • 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
そば屋のルーツは大阪・新町にあり!?
江戸でそのそばが流行するのは醤油が因している。

大坂の砂場にあったそば屋が江戸へ

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東西の食文化を比べると、いつも出て来るのがそばとうどん。一般的には前者が東京で後者が大阪といわれている。ところが歴史を遡るとあながちそうとは言い切れないのだ。文献によると江戸時代初期には、江戸もうどんの町だった。そばが不人気なのは、米や小麦が穫れない地ではそばを蒔くことから貧しさの象徴のようなイメージを抱かせたから。それがいつしか逆転するのは、元禄期あたりに銚子で濃口醤油が造られ始め、それを用いたつゆが普及したからだと思う。つまり醤油が江戸のそば人気の源だったというわけだ。
元来、そばの歴史は古い。「続日本紀」には元正天皇が大旱魃(だいかんばつ)にそばを栽培するようにと詔(みことのり)を発したとある。ただこの時あったそばは今のようなものではない。素麺のルーツが索餅だったり、うどんが混飩だったりするのと同じで、今のそばになるまではかなりの時間を要する。
我々がそばと呼んでいるのはそば切りのことで、それまではそば粒・そば粉・そばがき・そば餅を総じてそばと呼んでいた。そば切りは戦前までは江戸時代寛文年間(1661~73年)まではなかったとされていたのだが、天正2年(1574)にそば切りを記した文献が見つかっており、今では戦国期にはあったと考えられている。木曽郡大桑村の定勝寺仏殿修理工事にて「ソハキリ」が振る舞われたと書かれているからだ。

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では、そば屋のルーツは何か?明確なことはわかっていないが、大坂城築城の際に今の大阪・新町辺りが資材(砂や砂利)置き場となっており、ここに麵屋があったといわれている。宝暦7年(1757)の「大坂新町細見之図澪標」の廊名物之分には西門際に「和泉屋」、砂場角には「津国屋」があったことが記されているのだ。この新町の砂や砂利置き場は、通称「砂場」と呼ばれており、ここのそばが江戸へ流れて今も残る「砂場そば」になっている。今でこそ大阪に「砂場そば」は存在しないが、そのルーツは大坂・新町で(新町の公園に碑がある)、そのことを思うと大阪=うどんとは言い切れなくなってしまう。大坂城を作っていた時代からあったとすれば、日本最古のそば屋は「津国屋」となってしまうのかもしれない。
新町に端を発した「砂場そば」がどういった理由で江戸へ渡ったかは不明だが、寛延4年(1751)の「蕎麦全書」には「薬研堀大和屋大坂砂場そば」が出て来ている。このそば屋は江戸のそば通・日新舎友蕎子(ゆうきょうし)の目に留まり、一躍人気を博したそうだ。狂歌三大家のひとり、朱楽菅江(あけらかんこう)が「さてまた陸には砂場そば、にしき団子に大仏餅、いくよ餅、蛇の目酢、ゆで枝大豆に唐もろこし」と詠んでいるくらいだから、有名だったのだろう。
そば切りが世に出て来た頃は、今のような醤油のつゆに漬けたり、だしの汁に入れて食べたりはしていない。この頃は「うどんの汁と同様」と紹介されており、一つは垂れ味噌で、もう一つは煮貫(にぬき)で食べられていた。垂れ味噌とは、味噌に水を入れて煮詰め、布袋に入れてポタポタと垂らし出た液体をいう。この垂れ出た液こそ、今の焼肉のたれや付けだれと称されるようになったいわゆる「たれ」の語源なのだ。一方、煮貫は垂れ味噌に削った鰹節を入れて煮詰めて、それを漉したものである。このようなものに漬けて食べていた時代は、まだそばはそこまでブレイクしていないと思われる。

元禄期前後に流行し出す江戸のそば

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四代将軍・家綱の治世だった寛文4年(1664)ごろに倹飩(けんどん)そば切りが現れ、屋台ではなく、店でもそれを売るようになったといわれている。「けんどん」とは、吉原で値段の安い遊女・喧飩女郎(けんどんじょろう)をまねて名づけたもので、安い値を意味している。でも吉原だったために初めは一杯30文もしていた。それが寛文8年には8文に値下がりしている。
倹飩そば切りの後は、蒸しそばが流行した。これは貞享年間(1884~88)に出て来ているが、上方でも流行っていたようで元禄期(忠臣蔵の時代)には相当人気を博していたようだ。蒸しそばで思い当たるのが今も残る堺の「ちく満」。ここが元禄8年(1695)の創業だというから蒸しそばブームでできたことがわかる。
元禄になると、そば喰いの作法についても語られるようになる。女性のための教訓書「女重宝書」には「そば切りなど男のように汁をかけて食うべからず」と書かれている。これはつゆを直にそばにかけて食べる「ぶっかけ」を指す。この食べ方は江戸・新材木町(今の日本橋堀留町)にあった「信濃屋」が考えたもので、労働者が立ったまま食せるようにと冷がけにして出したのが最初で、この頃は下賤な食べ方といわれ、「女重宝書」にも指摘されたぐらいだ。それが今も残っているのだから「信濃屋」は凄いといわざるをえない。ぶっかけそば切りが流行したことで、冬にはそばを温めて熱いつゆをかけて出すようになった。つまり今の温かいそばが市民権を得たのだ。

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ぶっかけの流行で不都合も生じてくる。それはそば切りと表現しただけでは従来の食べ方か、ぶっかけかがわからなくなったからだ。そこでつゆに漬けて食べるのを「もり」と呼ぶようになった。ようやくここで「盛りそば」なるフレーズが出来たわけだ。実は「もり」よりも「ざる」の方が早く登場している。深川洲崎の弁天前に位置した「伊勢屋」が竹で編んだざるに盛って出したのが始まりで、この店が「ざる」という分類を作っている。現在でも「もりそば」と「ざるそば」の言葉は残っているが、その明確な違いはない。「もり」はぶっかけとの違いを示すために生まれたつゆに漬けて食べるそばのことで、「ざる」はその出し方(竹で編んだ器)をいう。明治時代にその違いを明らかにしようと、「もり」にもみ海苔をかけて「ざるそば」と称した。「もり」よりは高級なそばとしたかったらしく、つゆもみりんを多めにした特別なざる汁を用い、蒸籠も代えていたと伝えられている。
この後、江戸のそばは風鈴そばが出て来たりするのだが、長くなりそうなのでここで今回は止めておく。いずれこの後の話はどこかで書くことにしよう。私がそばの流行を書くことにしたのは、湯浅醤油の新古敏朗さんが醤油の普及とともに人気が出たのではないかと語っていたことから。調べてみると、新古さんの説は正確だったようだ。
最後にもう一つ、そばで酒を飲むという江戸文化がある。これは江戸の庶民がそば屋で一杯飲っていたことに起因する。おかずを食べながら酒を飲み、そばで締めるのがその頃のスタイル。関西でそれが定着しなかったのは料理屋が多かったせいだろう。現在、清酒「福寿」を産する神戸酒心館では、そばで一杯の文化を関西でも普及させたいとあの手この手で戦略を練っている。蔵内の日本料理店「さかばやし」には「酒そば」なるメニューがある。これは江戸の昔、そばで一杯飲っていると、どうしても話が長くなるせいか、そばが固まってしまう。そんな時、酒をかけてそばをほぐして食べたらしい。それをイメージしてメニュー化した「酒そば」は、もりそばに酒とつゆが付いて供される。酒は純米酒「福寿御影郷」が30ml入っており、それをかけて食すのだ。幸徳店長曰く「純米酒の方が旨みが強いからそばに合う」そう。かけると飲むとではまた異なる酒の風味が得られる。初めは酒をかけたものだけを口にし、二口目からそれをつゆに漬けて味わう_、そんなスタイルを紹介している。ちなみに「さかばやし」は、神戸市東灘区御影塚町1-8-7の神戸酒心館蔵内にある(TEL078-841-2612)。「酒そば」は1110円で販売されており、昼(11:30~14:30)、夜(17:30~22:00)営業ともにある。酒好き、またはそばに興味のある人は、一度試してみてはどうだろう。

湯浅醤油有限会社|世界一の醤油をつくりたい