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バナナは、身の周りにあるごく一般的なフルーツだ。日本に出回っているのは、ほとんどがフィリピン産か、エクアドル産で輸入品が99%。近くに産地があるわけではないのに、一般の果物より沢山売られていたりする。栄養価が高く、すぐに食せるのが魅力なのだろう。「関西人は、他地方の人よりバナナ好き」_、そう聞いても大半の関西人はピンと来ないだろう。でも購入量データを見ると、一目瞭然でその嗜好がわかる。なぜ関西人はバナナ好きなのか?その秘密は神戸港と深く関わっていた。そこで今回は、関西人がバナナ好きな理由を意外な線から探ってみた。
- 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
関西でバナナの消費が多いのは、神戸港が原因
関西人がバナナ好きというのはご存知だろうか。5月頃、NHKのニュース内でそんな話題が取り挙げられた。関西の夕方のNHKニュース内にある「nanでnan」というコーナーでの話題である。このコーナーには、私は以前にも「京都・大阪で夏に鱧…なんで?」というテーマで出演したことがある。今回は同様に「堺市は日本一のバナナ好き、なんでなん?」ということで解説依頼が来たわけだ。平成30年のバナナの消費ランキングを見ると、①和歌山県②奈良県③三重県の順。和歌山県は69.4本も一人が食べていることになっている。全国平均は44.3本だそうだが、50本以上を食べている所は、北から宮城・埼玉・千葉・三重・京都・奈良・和歌山・兵庫・広島・長崎となっている。今回「nanでnan」が指摘したのは、市別(都道府県庁所在地及び政令指定都市での調査)での消費量。そこではバナナの購入量は堺市が23662gと1位になっている。ちなみにベスト10は、①堺②津③神戸④京都⑤和歌山⑥大阪⑦相模原⑧大津⑨奈良⑩高松の順なのだ。都市名を見てもわかるように相模原と高松を除けば、あとは近畿圏ばかり。津を東海地方にするなら、ベスト10のうち関西の都市が7つも占めていることがわかる。これを見れば、NHKも「なんでなん?」と素朴な疑問が湧いて来るのも当然だろう。だからディレクターが「その理由がわかりますか?」と私に尋ねて来たのである。
なぜ関西人は、バナナ好きなのか?関西の人は気づいてないかもしれないが、スーパーに赴くと首都圏と関西圏ではバナナ売場の広さが違う。関西の方が売っているバナナの種類も多いし、売場も広い。大半の人はそんなことに気づいていないし、そんなにバナナを食べているとの自覚もないから「関西人はバナナ好き」と聞いても「?」と思うだけである。
当然、バナナは全国的に人気のある果物だ。どこの家庭でも購入しているであろうし、栄養価もあるので朝食には持って来いの果実だろう。昨今はバナナジュースの専門店が流行していてそこにスポットが当たったりもしているが、今更、「人気がありますよ」と言って注目すべきものでもあるまい。だから関西人は、家庭にあるのが当たり前で、スーパーのバナナ売場なんて東西比較とするまでに至らないのが本音かもしれない。ただ先のデータを見ると、関西でバナナが売れているのは一目瞭然。では、なぜ関西人はバナナ好きなのか?私なりの見解を披露しておこう。
関西でバナナが人気なのは、多分、神戸港に因がある。歴史を紐解くと、バナナが初めて日本へ入って来たのは明治期。今でこそエクアドル産やフィリピン産が主流だが、その頃は日本にとって近くの台湾が産地で、そこからの移入が主。大阪商船の「恒春丸」の船員が台湾・基陸(キールン)港から神戸に向けて7籠のバナナを積み込んで日本へ向かったそう。明治36年(1903)のことである。目的地は神戸港_、だから最初のバナナは4月10日に神戸で水揚げされたことになる。この頃の一籠が10.8kgなので約70kgのバナナが上陸したことになる。ちなみに当時は、台湾が日本統治下にあったので“輸入”ではなく、“移入”との表現になる。
そこから徐々に移入量は増えて行ったようだ。大正14年(1925)には、台湾青果が設立され、それまで個人によってバラバラに行われていた取引が統一された。そしてバナナのセリも始まっている。バナナといえば叩き売りが有名だが、大正後期には門司でバナナの叩きも始まったようだ。かつては高嶺の花だったこの果物も大正後期から昭和期にはグンと値も下がり、庶民の口に入るように。昭和12年(1937)は戦前のバナナ移入量が最も多くなっていた。戦時下では流石に生鮮バナナが姿を消したみたいだが、戦争が終わって昭和25年(1950)にもなるバナナの輸入が再開され、台湾バナナの黄金時代が訪れている。台湾バナナは三尺バナナとも呼ばれ、背丈が低め、果実も普通のバナナより少し短めだそう。ちなみに現在、日本国内に出回っているバナナは、99%が輸入品でフィリピン産とエクアドル産が占めている。昭和30年(1955)にGATに加盟し、それに基づいて輸入自由化が進められ、昭和38年(1963)に日本政府がバナナの輸入自由化を発表した。資料によると、昭和40年(1965)が1kg当たり264円で、それをピークにずるずると値下がっているそうだ。
戦前は、バナナを〝芭蕉″と呼んで栄養価の高い果物として持て囃していた。今でも大阪で古い家の年寄りは、バナナを芭蕉と呼んでいる。本来、芭蕉とは、芭蕉科の多年草でバナナとは別物。採取して繊維にする。芭蕉布によく使われていたのだ。琉球諸島に生える芭蕉をシーボルトが日本で見つけ、ヨーロッパに伝えた。果実がバナナと似ていたのでジャパニーズバナナと呼ばれたそう。大阪の古い和菓子に「芭蕉」とネーミングされたものがある。「総本家釣鐘屋本舗」で売られているそれは、バナナの形をしており、北海道産てぼ豆で作ったバナナ餡が優しい甘さを伝えている。現在、東京土産に「東京ばな奈」なんていうのがあるが、「名代芭蕉」は昭和の初めからあるもの。当時、庶民の手の届かないバナナを何とかしてそのイメージだけでも食べさせたいと開発。形のみならず風味までバナナにこだわって作ったという。ならば「東京ばな奈」なんてひよっ子のお菓子と言ってもよく、バナナ形の菓子はすでに昭和の初めから大阪で誕生していたのだ。
バナナが最初に入って来たのが神戸港なら、現在でもその多くは神戸港に運ばれている。バナナの輸入シェアは、今でも第一位で25%近くが神戸で水揚げされていることになる。海運関係者にリサーチすると、「神戸はバナナ港と呼ばれており、それが運ばれる埠頭は、『バナナ埠頭』の異名を持つ」という。
バナナは青果なのに加工が必要?
神戸・門司がバナナの輸入港なら関西や九州で消費が高まるのもわかるが、なぜランキング上位に広島の名があるのだろうか?そこで調べてみると、かつて広島には多くのバナナ加工会社が存在していたからだとわかった。広島は、バナナが水揚げされる神戸港と門司港の中間地点に当たる。両方からバナナが運ばれ、広島で加工され、中・四国へ出荷するという。バナナの集積地だから消費も多いとの話であった。
バナナは青果なのに、何と加工が必要だそう。バナナは、青いままだと皮・果肉が硬くて到底食せない。それを加工会社で黄色く熟成させて食べられるような状態にしてから出荷するのだ。黄色く熟したまま輸入すると、外国の虫が付いてる恐れがあるので植物防疫法で禁止されている。輸入した青いバナナを室(むろ)と呼ばれる所に入れて熟成する。まず13〜14℃で眠らせ、次に湿度を高めにし柔らかくする。そしてエチレンガスを注入して20〜36時間密閉し、バナナを目覚させて、自らエチレンガスや炭酸ガスを発生させて呼吸させて行く。こうする事で黄色く熟成されるのだ。バナナの加工会社は、このような作業を行う所で、かつて広島にはその作業を行う会社が20もあったそう(今は3社ほど)。バナナの一大集積地だったからバナナを食べる習慣は残っており、今でも消費量が多いらしい。
肝心の神戸はどうか?今でも海岸ベリにはバナナの倉庫が沢山ある。ここでは貯蔵もあるが、加工(熟成)の役目を果たしている。神戸港に水揚げされたバナナは、付近の加工会社へ運ばれ熟成する。黄色く熟成したら早く売らねばならない。なので距離的に近い関西圏のスーパーや市場などに多く運ばれる。関西のスーパーは、バナナ売場に力を入れるのでよく売れる。それと西日本は、東日本に比べて甘いもの好きの嗜好があるから余計にバナナを消費するようだ。海運関係者の話では、「倉庫に入れて保管していてもまた次の荷が来る。黄色く熟したバナナを次々と処理していかなければ大変。消費に向けての出荷も多いが、廃棄もすさまじい」との事であった。
かつて門司港で始まったバナナの叩き売りも廃棄を逃れるために行ったもの。輸送中に熟れてしまったバナナや、加工中に生じた不良品を一刻でも早く換金しようと露天商に渡して売りさばかせた。今では、流通も発達したので、そんな事をせずとも売れるのだろう。門司港駅前に「バナナの叩き売り発祥の地」がの碑あるが、今ではそれを文化財の一つとしてイベント的に伝えている。