121
時代劇を観ていると、華やいだ遊郭の雰囲気を伝えているのが、江戸の吉原だ。色街・遊里・廓と呼ばれた一画も、今はなく、その存在のみならず、雰囲気さえも伝えていない。関西在住の私は、吉原の場所さえ知らず、どんな所にそれがあったのかがわからない。後学のために一度訪れてみたいと思ってはいたが、東京へ出張してもそこへ行く機会は、これまでなかった。ところが先日、インタビューの後に「皆んなで行ってみよう」と知人が言い出し、行きつけだという桜鍋屋に連れて行ってもらった。そんなことがあったので、せっかくだから吉原について書こうと思った。そして吉原でよく出されていたという桜鍋についても触れておきたい。かつての吉原をイメージさせてくれる「桜なべ中江」についてレポートしよう。
- 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
かつての色街も〝強者(つわもの)どもの夢の後″
食の歴史を語る上で江戸時代は欠かせない。室町時代に和食の基礎が生まれ、江戸時代に入ってそれが開花して行く。今、我々が日本料理店で食べている料理だって江戸期に確立されたものが多い。江戸は三度の大火に見舞われたのだが、その大火後に文化が生まれているのも事実だ。現に明暦の大火(1657年1月)の後に浅草金竜山に奈良茶飯屋ができて流行する。これが飲食店のルーツとされており、そこで提供していた奈良茶飯と菜、汁のセットが今の定食の始まりと言われている。時代劇でおなじみの吉原もそう。もともと日本橋付近にあった元吉原が、都市機能として膨れあがり、この場所では流石に風紀的によろしくないと考えられ、明暦2年(1656年)に浅草日本堤に移転が決定。明暦の大火後の8月に新吉原としてお目見得した。新しい吉原では昔のようなしきたりも少なく、岡場所のような手頃さもウケて大流行り。吉原の焼け太りとさえ口々に囁かれたほど。
新しい吉原は、以前の吉原の1.5倍の規模。約2万坪ほどあったようで、それまで禁制だった夜間営業も許可され、ますます栄えて行ったとされる。幕府から公認された風俗の場所として遊郭が生まれ、参勤交代や出稼ぎなど男達が溢れていた江戸の町で、ある種特殊な文化が育れて行った。その町は、外部から閉ざされ、吉原大門を潜ると、手前に伏見町と江戸町1丁目と2丁目、中央部に角屋町と揚屋町、奥に京町1丁目と2丁目という、いわゆる五丁町が広がっていたと伝えられている。妓楼の1階部には台所と遊女の居住スペースがあって、その2階の遊女の部屋や座敷で夜の遊びが行われていたようだ。遊女の中でも格付けがあって宝暦年間以前は、太夫がその頂点。太夫とその下の格子を上級遊女として〝花魁(おいらん)″と称していた。遊女の大半は、貧農の娘が身売りされ、吉原の廓(くるわ)に入る。そして年季明けまで務め上げて身請けして出るまでこの町で過ごすのである。ちなみに年季が明けるのが27歳といわれている。実は、吉原は江戸時代だけではなく、昭和まで形を変えて続いていた。昭和22年(1947年)からは〝赤線″と呼ばれるようになり、売春地帯のように映っていた。それが昭和31年(1956年)に売春防止法が成立し、約300年に及ぶ歴史を閉じた。中でも江戸期の吉原は、市中とは異なる雰囲気を有し、そこには遊女のみならず約1万人もが暮らしていたそうだ。そして遊びを中心に、花魁のファッションや町に根づく食まで色んな文化が誕生している。単に遊郭の町として片付けられない文化性がそこには宿っていたようだ。
吉原名物・桜鍋が今もこの町に存在する
ところで今回、私はなぜ江戸時代の吉原の話を持ち出したのかといえば、9月に桜鍋を食べに吉原まで足を伸ばしたからだ。当日は亀戸にある知人の事務所でインタビュー取材をし、その夜に「せっかくここまで来てくれたのだから」と知人の粋な計らいで吉原へ桜鍋を食しに連れて行ってもらった。吉原と呼ばれる地は、今の台東区千束3〜4丁目辺りを指すらしい。浅草の浅草寺から北辺りに位置し、車でなら5分ぐらいか。日本堤と呼ばれた道を隔て、「土手のこちら、向こう」と言って表現されているようだ。私達は一応、吉原大門の交差点でタクシーを降り、かつて吉原大門があった一帯を後学のために歩いて桜鍋屋に向かった。この場所には、かつて遊郭があった名残か、今も風俗街になっている。ラブホテルとソープランドが建ち並び、コンパニオン募集の立て看板がずらりと見える。決して明るいとは思えぬ通りを歩いていると、「あしたのジョー」の像に遭遇。どうやらこの辺りは、漫画「あしたのジョー」の舞台でもあるらしい。聞けば、この像は、いろは商店街の吉原側に建てられているそうで、泪橋交差点から土手通り沿いに連なるいろは商店街が地域の活性化のために2012年に建てたようだ。
そんなジョーの像を横目に見ながら我々は、目的の「桜なべ中江」へ。同店では、タイトル通りに桜鍋が名物になっている。4代目にあたる店主・中江白志さんの話では、「かつて遊郭があった吉原では、馬肉の食文化が生まれた」そう。昔は桜鍋を出す店が20軒以上あって東京の郷土料理として誕生。遊郭へ行き帰りする粋客で流行したのだという。「桜なべ中江」は、明治38年(1905年)に創業。かつての吉原の文化を残すべく、古い建物を活用して桜鍋屋を営んでいる。中江さんに建物の古さを聞くと、「築百年経っており、店は登録有形文化財に指定されている」とのこと。HP内にある昔の写真を拝見すると、看板に〝日本堤 馬豚肉 中江″とある。日露戦争が終わって日本中がわき立っていた明治38年(1905年)にこの地で開業したらしい。今では、たった一軒になってしまったが、当時はハイカラな料理の象徴のように桜鍋が映っていた。「遊郭へ繰り出す前の腹ごしらえとして、また深夜は遊郭帰りの夜食にと、一日中賑わっていたらしいですよ」とその歴史を振り返ってくれた。そんな店舗も関東大震災で倒壊。その後に建てられたのが今の店舗で宮大工が建てており、至る所にその趣が見られる。「実は太平洋戦争で三軒向こうに焼夷弾が落ちたのですが、運よく不発で、今に残っています」と話していた。そういえば、「桜なべ中江」の隣りも古い建物で看板が「天麩羅 伊勢屋」となっていた。この二軒が戦禍を免れ、今も当時の雰囲気を伝えている。
肝心の料理の方だが、まず出て来たのが馬刺し、そして馬刺しの握り寿司へと続く。同店では、北海道で生まれて九州・久留米の牧場で育った馬の純国産桜肉を使用しているらしく、臭みがなく、柔らかくて味深い。鍋に行く前に「タロタロユッケ」なる一品料理を挟んだ。これは、かの岡本太郎が注文して生まれた一品。「仏国で馬肉のタルタルステーキをよく食べたのだが、同じようなものを食べたい」とのリクエストに応じて作ったそう。馬肉のユッケのような味わいで、醤油ベースの甘辛いタレが味のベースになっている。中江さんによると、同店には有名人がよく立ち寄っていたそうで、HP内には、武者小路実篤や11代目の市川団十郎、3代目の三遊亭金馬らの名前が見られる。
メインディッシュの桜鍋は、駒形どじょう鍋のような浅い鍋で煮る。何でも土地柄、さっさと食べて遊郭へ行きたいからで、早く火が通るようにと、そんな形になったようだ。桜肉は、身に脂が乗り、柔らかくクセがない。新鮮な証しにその生肉は、真紅に映る。まれに脂身が山吹色になったものがあるのだが、それは黄あがりと呼ばれて熟成した旨みのある馬肉だとか。ちなみにロースとヒレがあり、鶏肉も付いていた。馬肉と野菜を食べ終わったら、溶き玉子を入れて、ご飯にその汁をかけて味わう。割下と玉子が折り成す締めのご飯が、実にいい。
知人によると、「桜なべ中江」には別館が存在する。「桜なべ別館金村」といい、その昔、吉原遊郭の茶屋として繁盛していた店らしい。時代には逆らえず、平成21年に閉じるところを、「吉原の文化と歴史の灯を消してしまうのが忍びない」と中江さんが引き継いだとか。その店が「吉原に残った明治創業の蹴飛ばし屋」や「吉原最後の料亭」と言われている。
中江さんは、「桜鍋は東京の郷土料理」と説明していたが、そういえば鍋物は東京発祥が多い。寄せ鍋といわれているのも東京で誕生した〝楽しみ鍋″だし、今ではおでんの名で通ってしまった料理は、元来は関東煮といい、関西のおでん(味噌田楽)が関東大震災の炊き出し鍋に形を転じたものである。江戸時代は、獣の肉が禁忌とされ、牛や豚を食べることを嫌った。明治になって文明開花と称し、それらを食べることを推薦。横浜や東京では、牛鍋が流行している。「牛や豚がいいのなら馬の肉もよかろう」と鍋にしたところ、吉原で桜鍋が流行したようだ。その味わいが、今も「桜なべ中江」に残っている。かつての遊郭は、すでに姿を消した。ところがどっこい、桜鍋だけは、今も吉原の名残を伝えているのだ。