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関西人は、地場で昇華されたお好み焼きにプライドを持っている。東京で出て来るお好み焼きより味の面では関西の方が上だし、店の軒数も数段多いように思う。それと「会津屋」の遠藤留吉さんが昭和10年に今里新地にて誕生させたというタコ焼きも合わせて粉もん文化圏を関西では創出している。でもプライドを持つ関西人に、ちょっとショッキングな話をしよう。古くからの文献を覗いていると、どうやらお好み焼きは、お江戸(東京)にルーツがあるのだ。今回は、お好み焼き東京ルーツ説を下敷きに、粉もん文化の歴史的な話を書く。江戸の屋台料理に端を発したお好み焼きは、いかに発展し、関西に伝わったのか。その謎を一冊の本と共に解き明かして行こう。
- 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
お好み焼きのルーツは、江戸期の文字焼き?!



関西の料理って何?そう問われると多くの人がタコ焼き・お好み焼きと答えるのではなかろうか。今月の「名料理、かく語りき」で関西だしについて触れたが、その質問ならば、私は日本料理。しかも昆布・鰹節でだしを摂るだし文化だと答えるだろう。「お好み焼きは、関西発祥ではなく、実は東京で生まれた!」_、そんな話を放送局で話したらびっくりされた。おまけに「そんな事を言ったら袋叩きに合いますよ」と忠告されたくらいだ。けれど本当なのだから仕方がない!某所で同じ事を言った時も「そんなのは間違い!お好み焼きは大阪で誕生している」なんて断言された。大阪誕生説を唱える人も、それを示す文献なんてなく、単に関西が粉もん文化圏だから言っているに過ぎない。人によっては、麩の焼きルーツ説を唱える人もおり、千利休が作った麩の焼きからお好み焼きが発展していると言い切るのだ。だから関西誕生なのだとも。かつて私もその麩の焼きルーツ説を信じていたが、色々と研究するうちにどう考えてもその二つ(麩の焼きとお好み焼き)が繋がらないように思えて来た。麩の焼きとは小麦粉を水で溶いて薄く焼き、味噌を塗って丸めて食べる和菓子。巻いた形が巻物になって経典を思わせるから仏事用の和菓子として使われた。千利休発案という人もいるが、彼が茶会で使う前からどうやらあったらしい。千利休は、天正18年(1590)8月から翌19年の閏正月まで頻繁に茶会を催しており、そのうちの大半で麩の焼きが出ている。生麩は、鎌倉時代に肉を食さない僧侶がタンパク源としていたと伝えられるし、元来、麩は中国から伝わり、奈良時代に日本でも作られていた。麩にまつわるものなら以前からあったろうし、仏事用の和菓子から派生しているのであれば茶の湯とは別世界。ならば千利休が発案者というよりも麩の焼きを好んでいたと考えた方が理に適っている。単に小麦粉を溶いて延ばすだけならば、他でもあるだろうし、お好み焼きのルーツとは言い難い。ちなみに江戸時代になると、味噌を餡に替えて巻く助惣焼(別名「助惣麩の焼」ともいう)が江戸で流行してる。


では、お好み焼きのルーツは何なのか?色んな文献などを調べ上げて上梓した近代食文化研究会「お好み焼きの物語」(新紀元社)の内容が実に興味深い。同書によれば、そのルーツは江戸の屋台で売られていた文字焼で、それが明治時代に洋食屋台の流行によってお好み焼きが生まれたと書かれている。辞書で調べると、文字焼きとは熱した鉄板に油を敷いて、その上に溶いた小麦粉を垂らして焼いたものとある。ネーミングからもわかるように文字を描いたり、宝船や魚を模写して楽しみ、焼いたものを食したようだ。当初は屋台のオヤジが描いていたのだろうが、次第に子供に焼かせるようになって行く。要は、駄菓子の風景の一つである。かの葛飾北斎も「北斎漫画」の中で文字焼きの風景を描いているのだ。食文化が開花し、今のようなグルメ的なものが登場するのが文化文政期。この時代、江戸というと屋台が盛んで、江戸後期に誕生するにぎり寿司とて屋台文化から発展した食べ物だ。天ぷらもそうだし、鰻もそう。店舗でというより屋台で売られ、その後店舗化したものが目立つ。昭和期にお好み焼きは、子供達が通う駄菓子屋で売られていた。仮に文字焼きルーツ説が正しいとすれば、さもありなんで、売っている場所も江戸期と昭和期では同じだったという事になる。
「お好み焼きの物語」が示すように私もお好み焼きのルーツは、東京(江戸)にあったと考えている。それは屋台文化と関連性があるのと、このように簡素化された食べ物は、いかにも江戸らしいというべきだからだ(関西で生まれたものは、調理がもう少し複雑なのが多い)。そして多くの文献がそれを物語っている。
明治期に東京で洋食の屋台が流行する。そこから派生するのが、お好み焼きのスタイル。以前私は、某雑誌に「お好み焼きは洋食である」と書いた事があった。それを裏づけるのはソースの使用で、東京から大阪に伝わったお好み焼きは、当時、洋食焼とか、一銭洋食と呼ばれている。
「お好み焼きの物語」の中には、こんな件(くだり)がある。明治に入ると、駄菓子屋が文字焼きを取り込み、子供にそれを焼かせる商売を確立したそうだ。ここで文字焼きは、職人が焼くパターンと子供に焼かせるパターンに大別された。前者がどんどん焼きで、後者がもんじゃ焼きの先祖になると_。どんどん焼きとは、大正期から昭和10年ぐらいにかけて東京で流行した軽食で、具が少なく醤油が基本(ソースのものもある)の薄焼き。海苔が付いており、今の磯辺焼きのような雰囲気を醸している。このどんどん焼きから派生して西日本で流行したのが一銭洋食なのだ。つまり文字焼きがお好み焼きの先祖ともんじゃ焼きの先祖にわかれた事をその文章では物語っている。
ソースを塗るから、ハイカラで洋食?!

ここでソースの話をしよう。日本のソース生み出したのが今の「阪神ソース」。安井敬七郎が明治期に渡欧し、英国ウスターシャ地方でソースなる調味料に出合った。そもそもこのソースの発祥は一人の主婦から。余った野菜や果物をスパイスと共に壺に入れておいた所、それらが溶け合って美味しい液体に変化していた。ウスターシャの町で生まれた調味料だからウスターソースと呼んでいる。安井敬七郎は、仙台藩おかかえの藩医の13代目として育った。東京でドイツ工学博士・ワークネルに師事し、工業化学を勉強している。ワークネル教授が発した「神戸には美味しい肉があるのに、どうして日本には美味しいソースがないのか」との言葉がずっと気にかかっていたらしい。そこで輸入されていたソースを研究し、明治18年(1885)にようやく日本人に合うソースを造り上げたという。明治25年(1892)には英国へ渡り、「リー&ペリン」社でソース造りの指導を受けている。ちなみにリーペリンソースとは、英国ウスター市で生まれた、いわゆるウスターソース。1837年の発売以来、英国で親しまれており、王室御用達ブランドになっている。当然現代の日本でも有名ソースとして販売されている。そんな事情から安井敬七郎が神戸市兵庫区荒田町に「安井舎蜜工業所」として造った工場が現在の国産ソースの原点だといわれている。
大正期や昭和の初めは、ソースをつける事でハイカラな食べ物とされ、ソース=洋食だったわけだ。私の知人でもあるタコヤキストの熊谷真菜さん(講談社文庫『たこやき』の著者)によれば、「タコ焼きも洋食焼きの流れからソースを塗るようになったのかもしれない」と以前話していた。ちなみにタコ焼きは、大阪の「会津屋」が発祥で、今でもそうだが、醤油味である。


洋食屋台の流行から東京で生まれたお好み焼きは、大正期に大阪・神戸・広島に波及して行く。大正7年(1918)の読売新聞に“お好み焼き”の文字が出て来る。蝦フライ一銭のどんどん焼きとあってその屋台の暖簾に“お好み焼き”の文字が見られるというのだ(「お好み焼きの物語」参照)。また同年の読売新聞に”エビ天プラ一銭”とある。これはお好み焼きの事で、かつては、お好み焼きを”えびてん””いかてん”“牛てん”と呼んでいた。この○○天の呼称が神戸に今も残っている。大阪や広島が一銭洋食と呼んだのに対して神戸だけがその名残で“にくてん”と呼んでいる。今でも高砂(兵庫県)では、お好み焼きの事を“にくてん”という。
明治末期から大正初期に東京の文字焼きがかなり変化する。えび天・いか天・牛天などと称された天ものがヒットし、江戸期から文字焼きといえば、甘いものの駄菓子の一部にすぎなかったのが、干し海老やスルメ、すじ肉などの具材が入ってソースが塗られて、現在のお好み焼きの体(てい)を成すようになった。そしてその天ものが大正半ばから昭和の初めにかけて全国に伝わって行く。当時、天ぷらといえば関西では魚のすり身を練って揚げるものとされていたので、それと区別するために大阪では○○天と呼ばずに一銭洋食と称したのであろう。ただ神戸だけは“にくてん”の呼称で、にくてんの店はすでに昭和の初めにはあったと伝えられている。現在、神戸市民でもお好み焼きの事を“にくてん”と呼ぶ人は少ない。私が小さい頃は、親の実家にある淡路島では“にくてん”の呼び名が当たり前で、駄菓子を売る店の一角に鉄板があってそこでお好み焼きを焼いて売っていた。そう思うと、文字焼きの流れがあったと思われる。農林水産省の「うちの郷土料理」には、兵庫県の郷土料理として“にくてん”が出ている。薄く伸ばした生地に味付けしたジャガ芋、すじ肉、コンニャク、キャベツを載せて焼き、半分に折ったお好み焼きの事を高砂では“にくてん”と呼んでいると説明している。“にくてん”の名の由来は、すじ肉と天かすが入っているためではないかと「うちの郷土料理」には書かれているようだが、これはお好み焼きのルーツを辿ると違う事がわかる。ただ「お好み焼きの物語」では、○○天の「天」とは、①天かすを用いた②天に具材を載せた③天ぷらに由来の三つの説を挙げている。その中で大正7年の読売新聞記事をもとに三つ目の天ぷらに由来説が正しいのではないかと説明しているのだ。ラジオパーソナリティの谷五郎さん(高砂出身)によると、高砂のにくてんには、煮たジャガ芋が入っているのが特徴のようだ。彼ににくてんのお薦めの店を聞き、食べに行った所、確かにジャガ芋が使われていた。かつてB級グルメの祭典にもエントリーした高砂のにくてんだが、お好み焼きとの差といえば今では、そんな特徴の違いになっているのかもしれない。


では、なぜ関西は粉もん文化圏でこれだけお好み焼きが発展したのか。それには様々な要因があるのだろうが、一ついえる事は東京で店舗形式のお好み焼き屋ができ、それが伝播したのは大阪だった点。以来、ずっとお好み焼きが大阪に根づいている。物事のルーツを辿るのは、なかなか難しい。政治や行事などなら残っているものも多いが、殊、食になると文献は少なく、今ある文献を読み取る事でしか判断のしようがない。最近では、焼うどんの発症が小倉(北九州)だといわれており、昭和20年(1945)の終戦直後に小倉の食堂街から誕生したと伝えられている。でも私の考察によると、古川ロッパがヒモカワうどんと挽肉を軽く炒めた焼うどんを食べたとの事実が残っているのは、どう説明するのだろう?彼は、“関西で、それは戦争のはるか以前”と語っており、事実「古川ロッパ日記」によると、昭和15年(1940)10月7日に大阪の「木の実」なる店で焼きうどんを食べたと記している。“浪花座の前であきれたぼういずが出てゐるので、呼び出し、ニューパレスでソーダ水を飲み、木の実で焼きうどんを食って劇場へ”(塩崎省吾著「ソース焼きそばの謎」参照)。この文章から見ても戦後すぐの小倉発祥説は辻褄が合わなくなってしまう。だからといって目くじらを立て指摘するものでもない。食の歴史とは、そんな曖昧な点から成り立っており、色んな場所で同時は発生する事もあるのだから。私は、焼きうどんも関西発祥説がいいといっているのではない。鉄板があってソースがあってお好み焼きの類があれば、焼きそばだって生まれて来る。大正末期に浅草で焼きそばがあったとの文献も見られるし、どんどん焼き同様、それが西日本に伝播しても不思議はなく、古川ロッパが食べたように戦前には焼きうどんも大阪にあったとて不思議ではないのだ。我々は、現在の時点で調べ得る文献でしか考察する事はできない。ならば、お好み焼きの発祥は、関西よりもむしろお江戸(東京)と考えるのはおかしくないように思える。関西の皆さんは、かくなる理由でお好み焼きは東京生まれと聞けば、多少はショックを受けるであろうか。