2020年03月
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かつて賑やかだった商店街が店主の高齢化を因に店々を廃業。それとともに大型スーパーが乱立することで町の中核の地位を捨てつつある。シャッター商店街とは、よく言ったもので、ほとんど人の通りもなくしている所さえある。商店街再生をと、色んな企画を打ち出すも、大半は一時凌ぎのイベントに終わっているようだ。ところが大分県・豊後高田市は、全国でも珍しく、シャッター通りを再生させた町である。犬と猫しか歩いていなかった寂れた町が、今や40万人近くもの観光客を獲得するほどになっている。豊後高田は、急速に冷え込んだ町だったために建物が昭和30年代以前のものが多かった。これを逆転の発想としてとらえ、昭和の町として売り出したところブレイクしたのだ。今回は、その事例を紹介しながら田舎町の創生について語りたい。

  • 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
昭和は遠きになりにけり。
そのフレーズを逆手にとって
成功した商店街がある。

犬猫商店街が昭和テーマの町として復活。

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元号が令和になって一年程になる。昭和→平成→令和と生きて来たら何となくかなり永い時代を過ごしているように感じてしまう。かつて祖父母が明治生まれで、昭和という時代に暮らしていたように、私まで年老いて聞こえてしまいそうで嫌だ。"昭和は遠きになりにけり"と歌のように書いてしまうが、今の若い子達にとってはまさにそんな風に思えるのであろう。雑誌でも昭和40年代や50年代を懐かしむ特集が組まれているように、令和の時代からすると、高度成長期があった昭和は昔なのだろう。
昭和30年代をテーマに町興しに成功した所といえば、まっ先に大分県の豊後高田市が挙げられる。この地方都市は、シャッター街になっていたのを「昭和ロマン蔵」などをオープンさせ、それとともに町の人ぐるみで昭和30~40年代を思い起こさせるべく演出を施し、見事に町を再生した。豊後高田市役所で話を聞くと、かつては犬猫商店街(人がいなく犬と猫しか歩いてないの意味)と揶揄されたほど寂しい場所になっていたそうだ。それを平成11年から商店主が集まり、議論を重ねて今のような昭和をテーマとした町にして行った。

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そもそも豊後高田は、高田城の城下町で、島原藩の飛び地。高田港からは、大坂へ向けて多くの荷が積み出されていた。国東半島のつけ根でもあり、かつては10万人の商圏を誇っていたそうで、昭和初期までは商人の町として栄えている。昔は鉄道も走っており、宇佐参宮鉄道の終点として賑わっていた。ところが鉄道が昭和40年に廃線になるや、人々の往来が少なくなり、町は衰退の一途を辿る。昭和40年代というと、高度成長期でもあるのに、町はなぜか寂しくなり、人はどんどん都会(東京や大阪)へ流出して行った。ただ早い時期に衰退したことが、この町の再生に幸いする。犬猫商店街と揶揄された町を調査すると、その7割が昭和30年代以前に建てられた建築物がそっくりそのまま残っていたのである。この建物群に町興しのヒントがあると、昭和30年代をテーマに町再生が組み立てられていく。それにあたっては、4つのキーワードを作った。一つは、アルミ製建具を木製に戻し、昭和らしさを醸し出した。二つめは、店に残る宝を店ごとに展示し、一店一宝を謳う。例えば、それが氷で冷やしていた頃の冷蔵庫であったり、かつて出前に使っていた古い自転車だったりと、何でもOK。三つめは、昭和らしい商品を店ごとに販売すること。例えば、昭和30年代を彷彿させるアイスキャンデーでもいいし、昔の学校給食を思わせるメニューでもいい。四つめは、単に物を売るのではなく、手に取って語らうための対面販売の強化であった。

観光強化だけでなく、住みたい田舎としてもランキング

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同市の昭和の町の中核を成すのは、平成14年にオープンした「昭和ロマン蔵」。ここは県随一の金持ちといわれた野村財閥が所有していた建物で、近年は農協が米蔵として使用していたものを市が取得して観光施設に改修した。まず、オープンしたのが「駄菓子屋の夢博物館」で、かつて太宰府で駄菓子を営み、玩具やポスターなど昭和らしいコレクションを大量に有す小宮さんを招へいし、この場所で彼のコレクションを展示してもらった。豊後高田市観光まちづくりの人の話によれば、その所有数は30万点以上。そのうち6万点を「駄菓子屋の夢博物館」に置いているらしい。館に入ると、こんなフレーズが掲出されている。「10年ちょっと前、金を遣って全国を回ってゴミ集めてどうするの?と言われた。捨てるのは、思い出も捨ててしまうこと。どれだけ多くの人々の懐かしい思い出がくっついているか」。かつては、ガラクタ同然のものでも、昭和をテーマにすると、いきてくる。そしてその一つ一つが思い出を添えて蘇える。小宮館長は、そう言いたかったのではあるまいか。

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現在、「昭和ロマン蔵」には、「駄菓子屋の夢博物館」と「昭和の夢町三丁目館」などがある。後者の中には、昭和30年頃の風景が広がり、小宮館長が幼少期を過ごした家周辺の雰囲気が醸し出されているのだ。五右衛門風呂に入ろうとすると、風呂場の音が流れ、塀の穴を覗くと、家人から叱られる_、そんな音声がリアルに流れ、まるで映画「ALWAYS 三丁目の夕日」の世界が広がっているかのようだ。「昭和ロマン蔵」からは、土日祝に限り、昔懐しいボンネットバスが走っている。このバスは、昭和32年式のもので昭和44年に秋田で廃車になって放置されていたそうだ。それを福山自動時計博物館が引き取り、この町へ持って来て平成21年に観光用バスとして復活を果たした。今では、土日祝日に一日9便、30分おきに15分間の道のりを無料で運行している。名物バスガイドの話が面白く、昭和の町の人気アイテムになっているようだ。豊後高田の昭和の町は、駅前通り・新町1丁目通り・新町2丁目通り・中央通りと青天の商店街を歩くように散策する。単に歩けば15分ぐらいだろうが、その店々に足を止め、商品を買ったり、店主と話したりしていると、半日は過ごせてしまう。大衆食堂「大寅屋」は、昭和55年から値段が変わっていない店で、ちゃんぽんやかけうどんなどが味わえるし、「カフェ&バー・プルヴァール」は、懐しの給食が味わえる喫茶店だ。「日名子鮮魚屋」は、この町の住民が普段使いする魚屋で、古き良き町の魚屋さんの風情を伝えている。駄菓子屋でもある「古美屋」には、スマートボールがあったり、高倉健や吉永小百合など往年のスター達のブロマイドが売られていたりしている。このように店を見ながら歩いていると、昭和30年代にタイムスリップしたかのような錯覚に陥ってしまうのだ。

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殊、観光面だけにスポットライトがあたる豊後高田市だが、実は移住組を多く獲得している。市では空き家見学会を催したり、移住の際に派生する引越代を補助したりと手厚い支援を組んでいるからであろう、福岡や大阪から移り住む若い人達も多いと聞く。今では住みたい田舎に7年連続ベスト3としてランキングされている。
全国各地でシャッター街を再生さそうとの取り組みが成されているが、大半が絵に描いた餅のようになってしまうのが現状。しかし豊後高田は、3年目で20万人超えを達成。平成30年には、39万人もの観光客を獲得、91億円の経済効果を得た。まさに地方創生の成功例ではなかろうか。

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