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今月はつらい話を書く。私と知己のあった高柳好徳さんが亡くなった。まだまだ若く、これから面白いことがやれそうな仕事仲間だっただけに残念でならない。「このグランメゾンを超えるフレンチはまだ現れていない」とまで言われる名門「ジャンムーラン」で美木剛さんに師事し、その後、独立して北野町(神戸)で「シャンティオジェ」や篠山・丸山地区の「ひわの蔵」を開いたりした名シェフだ。今月は私的ながらも彼を偲びながらコラムを書きたい。本来なら「名料理、かく語りき」に出るべきだった名料理人との思い出をあえて「食の現場から」で語ろう。
- 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
日常にフランス料理がある、
かの有名人も唸らせた技術力
日常にフランス料理がある、かの有名人も唸らせた技術力
私が高柳さんに出会ったのは、「御所坊」の金井啓修さんの紹介によるもの。店のアイドルタイムを使って商品を作り、神戸の名物として売り出せないかと相談され、「ジャンティオジェ」で何人かと会議をしたのがきっかけだった。
当時、高柳さんは篠山で「ひわの蔵」を始めたばかりだったと思う。お土産にと篠山産の黒枝豆をもらって帰った。その後、交流ができ、何度か「ひわの蔵」にも食事に出かけたし、雨宮塔子さんの取材では、神戸らしいフレンチとして「ジャンティオジェ」で料理をふるまってくれた。雨宮さんは、この時が初来神。神戸のエッセイを書いてもらうためにわざわざフランスから来てもらい、街の各所を案内した。その時に二日目のディナーをと「ジャンティ」に連れて行ったのだ。高柳さんや当時「ジャンティオジェ」の料理長だった鈴木由希雄さん(名料理、かく語りき第9回に登場)が色々と工夫を凝らしてくれ、フランス在住の雨宮さんもかなり喜んでくれた。そして猪肉のステーキを食べながら「ジビエの扱い方さえフランス人を超えている感があるのに衝撃を受けた」と述べてくれたのだ。彼女が一連の神戸取材で記した「続ミナト・神戸STORY」の中では「その温かいサプライズが胸に染みて味わうどころではなくなってしまったのだが、贅沢な素材をぶつけ合っても、お互いがより引き立て合っているところに、シェフの並々ならぬセンスを感じた」と評している。フランス料理が日常にある彼女をしても高柳さんの料理はよかったようで、エッセイの中で「それにしても神戸の街は美味しいものだらけだ」と感想を書いているのだ。
陽の目を見なかったハッタリソース
高柳さんは、私の想像する「ハッタリソース」を見事具現化してくれた。この模様は後日NHKのニュースでも放送されたのだが、取材日にインタビュアーから「なぜこんなソースを作ったのですか」と問われた高柳さんは、あっさり「曽我さんが命名したソースを実現させただけ」と答えている。かなりレベルの高い仕事をやったにも関わらず、さも力が入ってないかのように答えてしまう高柳さんの人の良さと技術力の高さに感服させられた。
実は湯浅醤油の「名料理、かく語りき」に高柳さんを登場させようと目論んだことがあった。数年前の4月半ばに「ひわの蔵」をランチで訪れ、その後に取材の申し込みをした。流石にGWは忙しかろうと、GW後に取材する予定にしていたのだが、思わぬ電話が彼の弟子から入った。聞く所によると、GW中は店をこなしていたのだが、首から肩の辺りが腫れ出したので病院で精密検査をするとのことだった。結果、悪い目が出た。なんとリンパ腫だったのだ。当然ながら高柳さんは、入院を余儀なくされた。
一時期、退院して来た高柳さんに、途中になっていたハッタリソースの相談を持ちかけたことがある。こちらとしては無理をさせてもいけないので、彼のレシピでどこかで作る所を探したいと思っていたのだが、高柳さんはどうしても自分でやりたいと言い、試作品を弟子とともに作って岡本商店街へ送って来たのである。高柳さんの作ったものなので当然文句をつけるレベルではなく、すぐにでも商品化に乗り出したかった。しかし、彼に無理を強いるわけにもいかず、「元気になったら商品化しましょう」といったん置いたのである。それから暫くして高柳さんは、「地元(九州)に戻り、温泉で療養する」と電話をかけて来た。それが彼と話した最後である。人伝手に再入院したとも聞いたし、よくないとの噂も伝わって来た。こちらとしては祈る以外に手だてはなく、料理人としての復帰はともかくとしても少しでも元気になってほしいと願うばかりだった。
今年の5月某日、「ジャンティオジェ」の鈴木シェフから「昨日、高柳が亡くなりました」との訃報が届いた。「ジャンティオジェ」自体はすでに鈴木さんの経営になっており、北野の店は残った形になっている。だが、「ひわの蔵」は主を失い、閉めるしかないそうだ。農家を改装し、野菜を育て、自然と一体となったフレンチレストランだった「ひわの蔵」。もうそこで彼の料理が食べられなくなってしまった。そう言えば、鹿肉が8月に旨くなると教えてくれたのは高柳さんだった。8月のある夜に「ひわの蔵」に予約を入れて出かけた。行くと、「いい鹿肉が入ったのだ」と彼は言う。「鹿は淡泊な赤身なんですが、不思議と8月だけ脂が巻くんですよ。ハンティングの季節は秋から冬なので、残念ながらこの旨い肉が食せないわけです。曽我さんは、食運がいいから、来る日にたまたま猟師が撃ったんだと持ち込んで来る。だから今日のメインディッシュは、鹿肉のローストですよ」。そんな風に言って料理をしてくれた。以後、鹿肉の薀蓄を話す時は高柳さんのこの話をネタのように使わせてもらっている。話はいくら思い出せても彼の料理がテーブルに並ぶことはない。あとは天国でその腕を存分にふるってほしい_、そんなことしか思い浮かばない。フレンチの名料理人が逝った、まさに残念でならない。