2016年11月
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以前からそばの話を書きたいと思っていた。丁度、先日出石の名店へ出かけたので、それがきっかけになると思い、店主に出石そばのことを聞いて来た。それにこれが載る頃は寒くなり始めた頃で、年越そばもあるからこの時季に語るのも悪くはないだろう。そばと醤油は切っても切れない間柄で、このコラムにもふさわしいネタだ。そもそも江戸でそばが広まったのも醤油が伝わり、関東でそれを造る所がでてきたからで、醤油が和歌山から伝播するのが遅れれば日本の食文化も今と違ったものになっていたかもしれない。というわけで、今月はそばの話を楽しんでもらいたい。

  • 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
江戸そばもいいが、丸く伸ばして作る出石そばも
独特の食スタイルで面白い。

細長いそばは、江戸時代に流行した

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そばといえば、今のような細長い麺を思い浮かべるであろう。ところが、この形になったのは安土桃山時代以降だと見られている。そば切りが初めて文献に登場するのは、木曽郡大桑村(長野)の定勝寺で見つかった「定勝寺文書」だ。これは天正2年(1574)に行われた仏殿の修復工事の記述で、ここに「ソハキリ」が振舞われたとでているのである。「ソハキリ」とは「そば切り」のことで、それ以前に食べられていた「そばがき」でもなく、今のように細く切ったものを指している。
そばの町として知られている江戸も徳川家康が入府した頃は、うどんが主流だった。それくらいうどんの方が麺として世に出たのが早かったという証しで、江戸時代初期の慶長年間に作られた「駿府城築城図屏風」にもうどん屋が描かれているのだ。
それが四代将軍・家綱の頃(寛文年間)に「けんどんそば切り売り」が吉原に現れてから様子は一変していく。それより以前は、浅草で戸板の上に椀に盛ったそばを並べて売ったとの話もあるが、調べてみるといささか怪しい所もあるよう。どうやら寛文年間より前は、「うどん・そばがき」と書かれており、「そば切り」のように細い麺ではなく、塊状で出す「そばがき」を提供していたと思われる。

 

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そばと日本人の関わりは古く、縄文の頃にはそれを食べていたと伝えられる。そばがき自体は鎌倉時代以降のもの(鎌倉時代にはすでに存在していた)で石臼の普及とともに広まったといわれている。そば粉に湯か水を入れて加熱し、手早く混ぜて粘りを出し、塊状にして食しており、これを「そばがき」と呼んでいた。一方、前出の「けんどんそば切り」とは、江戸中期までの麺屋である「けんどん屋」で出していたそばをいう。けんどんとは、倹飩という字を書き、けんどん箱(上下、左右に溝があり、蓋戸のはめはずしがきく箱)に麺を入れて出していたのが名前の由来。一方では日本橋瀬戸物町あった「信濃屋」の店主が不愛想でつっけんどんであったことからそば屋がそう呼ばれたとの説もあるが、私は吉原の「けんどんそば切り」が当たったためと考えている。
寛文年間に出た仮名草子「酒餅論」には、そば打ちの様子が描かれているのだが、この頃はまだ麺棒一本でそばを作っていたようだ。今の江戸流は四角く伸ばして麺棒を三本使う、一方、信州の田舎そばは丸く伸ばすのに一本を使うと相場は決まっている。丸の場合は一本で十分だが、四角いと巻きつける棒やら押し伸ばす棒やらがいるために三本必要となってくる。つまり今の江戸そばは、田舎そばから出て進化したものだと思われる。

なぜ出石はそばの町として名を馳せたのか

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さて、話はいきなり出石へ飛ぶ。出石といえば但馬地方の町で、そばが有名である。これは宝永3年(1706)に出石藩主の松平氏と上田藩主の仙石氏が国替えになったことによる。仙石政明が信州から出石へ移る際にそば職人を連れて来たので、以来この地に信州そばが根づいた。今の出石そばは、出石焼の小皿にそばを盛り、それを何枚も食べるのが一般的。薬味は鶏卵にとろろ、ねぎ、大根おろし、わさび。うずら卵ではなく、鶏卵一個を使う所に特徴がある。出石そばの名店「そば庄」で話を聞くと、この形は昔からあったわけではなく、昭和40~50年代に作ったもので、競わして食べることで売上げを上げるとともにエンタテイメント性を持たせたいと考えたようだ。
そばの町として有名にはなっているが、実はそれが知れ渡ったのは国鉄のディスカバージャパンのPRがきっかけ。それまでは「南枝」と「よしむら」が冬期のみ細々と出していたにすぎず、秋に収穫したそば粉を使い切るには春までが関の山だったのであろう。それをオールシーズン対応に変えたのが「そば庄」の初代で、昭和41年には足らずのそば粉を神鍋に求めて一年中出せるような仕組みを作っている。昭和50年に入ると、役所も観光の目玉にそばを置きだし、PRに躍起になる。それが功を奏してそばの町の異名をとるようになっていく。町並みも整備し、観光要素をはっきりさせたので、今では蟹ツアーの昼食処として観光バスが寄るようになった。「そば庄」の店主・川原千尋さんによれば、今では70万人もがこの町へ訪れるそうだ。目的はそばを食べに来ること。周辺に城崎や豊岡といった観光地があるために、温泉や蟹が主でも従として出石そばを付けて観光を成立させる旅行業者が多いという。

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ところで私がちょくちょく訪れる「そば庄」だが、町でも有名なそば職人(川原千尋さん)がいることで知られている。「そば庄」のそばは、鬼皮もいっしょに挽き込んだ「挽きぐるみ」と、鬼皮を取った「抜き」を合わせているのが特徴。この辺りのそばは、「抜き」を入れていないようだが、川原さんは「それを入れた方がそば自体の雑味が抑えられ、香りが立って甘みが増す」と説明している。メニューは皿そばのみで、酒のアテとして「サヨリの一夜干し」と「自家製スルメイカこうじ漬け」があるくらい(10~3月までは「にしんそば」「山かけそば」もラインナップする)。そばは二八と十割があり、後者を「ちひろそば」と呼んで、「抜き」だけを用い、石臼挽きで作っている。ちなみに二八の方はロール製粉。この場合、押し潰すのに熱が生じる。片や石臼挽きは熱がなく、その良さが香りに出ると教えてくれた。皿そば(二八そば)は、一人前5皿で900円、追加は一皿150円。ちひろそばは、1200円とこだわる分だけ価格も上である。
この「そば庄」を含め、現在出石そばを出す店は49軒。ピーク時は50軒を超えていたというが、そう少なくなっていない。これもそばで観光立地するのが浸透しているからに違いない。出石では、伝統ある「三たて」(挽きたて、打ちたて、茹がきたて)を守っており、店各々が個性を持たせている。だから観光目的として選ばれるのだと思われる。この町では、「出石そば」で地域団体商標を取った。飲食では初めてだそうである。

●そば庄 鉄砲店
住所/兵庫県豊岡市出石町鉄砲27-13
TEL/0796-52-2432・5479
営業時間/11:00~19:00
休み/水曜日

湯浅醤油有限会社|世界一の醤油をつくりたい