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昨今は日本酒がブームである。とはいっても「新政」と「獺祭」が牽引するそれは、かつての地酒ブームのようなものではなく、うねりは小さい。そんなブームをよそに一つ、また一つと廃業に追い込まれる蔵がある。つまりいい蔵は少しということだ。このような状況下の日本酒業界にあって、珍しくも復活した蔵がある。かつての灘に対して小灘と呼ばれていた堺に唯一の酒蔵として近年産声をあげたのが「堺泉酒造」なのだ。堺といえば、自転車に包丁と産業は数々あるが、明治・大正期ではその中でも日本酒づくりが最も隆盛を誇っていた。それが昭和41年に最後の蔵が幕を閉じた後、不毛地帯になっていたらしい。今回は、堺の日本酒復活を掲げ、堺泉酒蔵を設けた西條裕三社長と杜氏の望月清美さんに話を聞いて来た。
- 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
なぜ小灘は姿を消したのか
堺に一つだけ日本酒の蔵がある。しかも平成26年に誕生したニューフェイスだ。かつて堺は“小灘”と称されるほどの酒どころで、江戸期の文政3年には101もの蔵が並び、59547石も造っていた。堺には包丁など有名な産業があるが、その中でも明治~大正期には日本酒製造が第一位になり、当時でも95蔵があったほど。それが昭和初期には徐々に減り始め、昭和41年には一つだけ残っていた蔵までが店じまいしたというから驚かされる。
堺というと、商人の町として繁栄し、かつては自由都市として隆盛を極めていた。要因は数々あるが、その一つとして挙げられるのが応仁の乱での京の荒廃。永きに亘り、戦火にまみえた町を捨て堺に移転した商家がどっと出た。応仁の乱は、全国に連なる戦争だったので、その影響も出て海外への貿易ルートも瀬戸内から和歌山沖を通るものに変更された。そうなると重要視されるのが堺の港。ここから運ぶことにより、堺はさらに発展。安土桃山時代には商人による自治都市として栄える。日本酒自体は、伊丹や池田が先に盛んになったといわれているが、江戸期に大きな発展を及ぼすのが、その造りもさることながら海上運輸の便利さであろう。灘がその恩恵を受け、江戸への酒輸送で一大酒造地帯を成すに至った。海上交通の至便さは堺も同じ、江戸期の石高が示す通り、この地もまた灘とはいかないまでも酒造りで栄えていく。
では、そんな堺の酒造りがなぜ衰退したのか。堺では、あろうことか、明治中期には灘の宮水を入れて造りを行っている。加えて市街地開発が進み、工場などから出る汚染によって水質が悪くなった。それでも増大する輸出を賄うために灘から酒を移入し、その個性を消して行ったのである。堺から灘へ移っていく蔵も現れる。「金露」や「福徳長」などがそれらしい。酒づくりには杜氏の技術が欠かせないが、但馬杜氏や丹波杜氏はどうしても灘の方が近く、その距離の差もあって彼らの腕が不足し始めたのだ。さらに太平洋戦争の空襲は、町にとって大打撃を及ぼし、蔵を焼いてしまう。そうこうしているうちに堺で酒を造る所はなくなってしまい、ついに昭和41年唯一残っていた新泉酒造が灘の蔵と合併して堺の酒造業は幕を閉じてしまったのだという。
八段仕込みに挑戦し、堺らしい味を醸す
ところが、かつて“小灘”とまでいわれたほどの酒造業の復活を望む声は多く、平成15年頃からその動きが出始めた。そんな市民有志の声を具現化したのは、西條裕三さんである。西條さんは、造り酒屋(河内長野)の家に生まれ、小学生から中学時代まで堺で暮らしており、縁りがあった。金融機関の仕事に就くも、ある時期から家業を継ぎ、酒造りに専念。金剛山天野酒をブレイクさせた実績があった。病気により引退はしたが、身体もよくなったために幼少期を過ごした堺の人達の想いに応えるべく、平成の世に堺唯一の酒蔵を立ち上げたのだ。
平成17年1月には、泉佐野の「北庄司酒造」で仕込み、1.8ℓ瓶を9000本造っている。ちなみにこの時の銘柄は「夢衆」という。一時期、京都の東山酒造とコラボして西條さんが持っていた商標「千利休」の名で日本酒を造ったこともあったそうだが、平成25年からはより本格化し、堺で日本酒づくりを始めることにしたようだ。平成26年には、灘にあった泉勇之介商店から清酒免許を取得し、堺東駅前の料亭「備徳」の一部を借りて製造を行うようになった。その時は3400ℓ造ったようだが、なかなか反響が大きく、すぐに売り切れたのだそう。西條さん曰く「需要が供給に追いつかない」ようで、そこでの限界に達したのか、平成28年に製造拠点を南海堺駅前へ移している。杜氏のひとり、望月清美さんに聞くと、今年は14800ℓを造ったらしいが、それでも需要の方がまだまだ高いとの話であった。
「堺泉酒造」で造られた日本酒は「千利休」と冠されて売られている。例えば純米吟醸酒は、兵庫県の山田錦(精米歩合55%)を用い、9号酵母で丁寧に醸したもの。昨年末に搾り、火入れして瓶詰め貯蔵したものを、春を迎えてタンクに開け替えて再度火入れして瓶詰めする。半年ほどの熟成と二度の火入れによって落ち着いた香りと味わいになっている。
西條さんは、堺らしい味のものを世に出したいと考えている。彼が言う“らしさ”とは、甘い酒なのだ。「昔から堺の酒は甘いと言われていました。それは単に味が甘いのではなく、酒としての甘さがあると言うこと。灘が辛口の男酒なのに対して対照的な風味を指すのです」と西條さんは言う。例えば、酒にまつわるものは「酉」の字が関連するが、「酉」に「甘」と書く「酣」は、たけなわと読む。意味は物事の勢いが盛んであることで、その字にふさわしい甘い酒を目指したいと考えているようだ。
堺泉酒造が特徴的に打ち出すのが八段仕込み。普通、日本酒は三段仕込みが主で、八段も行う所は一カ所もない。杜氏の望月さんとて当然初めてで「四段目は想像がつくが、五段以降はどうなるかわからない」と言っている。ただ、酒母を造り、そこから8回も米を分けて仕込むのだから甘くなりやすいのは、理論的にわかっているようだ。「糖分が残りやすくなります。酵母が苦しがって難しい造りとなるのですが、甘みがあって雑味のない、すっきりした酒になると思います」と話している。これも西條さんの経験によるもので、かつて八段仕込みを行った日本酒が4本だけ手元に残っており、それをヒントに酒造りが進行している。この八段仕込みの日本酒がお目見得するのは、今年の10月。我々はそれまで首を長くして待たねばならない。