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今月の「食の現場から…」は、日中の餃子考。今や日本人のスタンダード食ともいうべき餃子は、当然ながら中国から伝わったもの。そのルーツを辿ってみると、日本と中国のお国事情が絡んでいることがわかる。我々日本人が当たり前に食している焼き餃子も、実は煎餃子と書かれたり、鍋貼と書かれたりする。その文字の違いで、形や地域も変わってくるから面白い。今日はいつもの酢醤油で“餃子”を味わいながら日中の餃子考を論じてみる。
- 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
餃子ひとつでも日中に隔たりがあるのを
知っているだろうか?
餃子に見る日中の嗜好の違い
ある時、某出版社の編集長が餃子本を出したいと言ってきた。私の答えは“否”。なぜならどの店の商品を撮っても絵柄は同じになるからだ。ケーキや和菓子なら店ごとに形の違ったものがある。一見、同じように見えるカレーもそうで、カツを載せたり、皿を代えたり、提供の仕方を替えるだけで、十分違った絵づら(写真)になる。ところが餃子は大半が焼き餃子で、しかもシンプルな器に載せられているために各店舗変わり栄えがしない。なので餃子本は成立しにくい――、それが私の見解だった。
日本では大半が焼き餃子だと書いたが、中国に目をやると、色々あることがわかる。元来、餃子には、水餃子、煎餃子、蒸し餃子、炸餃子の4つがある。煎餃子とは日本でいう焼き餃子のこと。一方、炸餃子は揚げ餃子を意味する。日本では焼き餃子がポピュラーなのだが、中国へ行くと少し事情が変わり、水餃子が主流となる。中国には古くから「水餃子は貴族の食べ物、焼き直した煎餃子は使用人の食べ物」という言葉がある。基本は水餃子――、それを位のある人や裕福な人が食べる。沢山作って残れば、それを使用人に下げ渡す。水餃子の茹で直しなど、とても食べられたものではないので、もらった使用人は仕方なく焼いて食す。こういった食文化が昔から根づいているのだ。近年、日本の某中華料理チェーンが中国進出を果たした。売りは、名物でもある焼き餃子だ。“餃子が母国へ凱旋帰国”と意気揚々出店したのだが、見事散っている。「水餃子は貴族の食べ物で、焼き直した煎餃子は使用人の食べ物」というフレーズを知っていたのかどうかは定かではない。しかし、仮りに知っていたならそんな無謀の挑戦は避けられたはずである。
餃子は華北の食べ物といわれ、日本が満州進出を謀ったので、我が国にもそれが輸入されてきた。餃子の町としては、宇都宮と浜松が挙げられるが、そのうち宇都宮の餃子は日本陸軍に起因している。戦前、満州に出兵していたのは第14師団。この駐屯地が宇都宮だった。戦後、満州から復員してきた兵隊たちが餃子の製法を伝えたために宇都宮にはその専門店が多くでき、今では消費量が日本一といわれる。ちなみに昨年、日本一の座を奪ったのが浜松。この町には専門店が約80店もある。キャベツをたっぷり使用した甘みのあるものが特徴で、薄い塩味で軽く茹でたモヤシを添えるスタイルで提供する。これは「石松餃子」が屋台時代に提供した形。浜松駅近くで開いていた先代店主が、満州で製法を覚えたという復員兵に、どうしても食べたいと乞われ、彼にレシピを聞きながら作ったと伝えられている。つまり餃子の町・宇都宮と浜松はともに満州に縁があるということだ。
餃子のルーツは山東省にある
餃子は満州を含む華北の料理と思いきや、そのルーツは黄河の南・山東省にある。山東省を代表する料理に「チャオズ」と呼ばれるものがある。漢字で書くと、餃子。つまり水餃子のことだ。日本の餃子はニンニクが入っているが、同地では入れない。タレを漬けて食べる際に卸したニンニクを入れたり、そのまま噛んで食すらしい。中国では水餃子を焼き直したものを煎餃子というと書いたが、山東省にも焼き餃子は存在する。山東省のそれは“鍋貼(クオティエ)”という。ただ日本でおなじみの三日月型とは違って、皮に餡を載せて二つ折りにするという春巻形式。それがなぜか日本に伝わった際には、ひだが付けられ三日月型になっていた。山東の鍋貼にニンニクを入れ、日本風になった餃子は、戦後の日本人に受け入れられ、いつしか大衆食になっていった。関西人にとってそれを初めて食したのは「珉珉」だったという人が多いのかもしれない。同店は昭和28年に千日前でお目見得している。いち早く餃子をメニュー化し、その味を関西人に伝えている。発売当初は、「ぎょうざ」と読めず、ある人は「さめこ」と注文したそうだ。餃子を焼くという文化は、匂いの効果もあってまたたく間に広まった。「珉珉」の前には長蛇の列ができ、調理場では一日中餃子の皮を伸ばし続けていたというから凄い。
餃子を味わう時は、ラー油に酢醤油と相場は決まっている。しかし、神戸の「お好み焼 千代」(お好み焼きと書いているが、なぜか高級中華料理店)では、水餃子に対して別にタレは作っておらず、客の好みで味あわせるという。「千代」の水餃子に最もフィットしているのはポン酢。どうせ日中により嗜好が異なるのなら、タレも合わせる必要はないと思ってしまう。だが、個人的意見では、中国の醤油より日本の醤油の方が、なぜか美味しく思えてしまう。 餃子を「ギョーザ」と読んだのは一体誰だったのだろう。持ち込まれた頃は、中国読みの「チャオヅ」と呼んでいたようだが、いつしか日本読みができている。山東省の方言では、餃子と書いて「ヂョーズ」と読むらしい。「ギョーザ」と「ヂョーズ」、どうやら山東方言がなまったものだと考えられる。
餃子の日本への移入は、互いの歴史事情が関与しているようだ。山東省の半分は山と丘陵地が占めている。その70%が耕地で、農民が多い。1920年から1930年にかけて同地では天災によって大飢饉が起きている。その間、1000万もの人たちが満州開拓を目的に華北へ移住した。この入植者が山東の食文化のひとつだった餃子を華北へ持ち込んだ。同じ頃、日本では山東出兵があり、満州に軍人のみならず、民間人までが渡っている。このように互いのお家事情により、食文化が交わった。そして唐揚げ、ラーメンと並んで日本のスタンダード食になった焼き餃子が生まれたのである。こうして考えると、ひとつの料理が根づくまでには、色んなドラマがあることがわかる。 (文/曽我和弘)