2014年12月
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1月17日_、今年もまたあの日が訪れる。今から20年前、神戸で暮らしていた私は、確実に阪神淡路大震災の被災者になっていた。多くの店が潰れ、路頭に迷う人を横で見ながらも「あまから手帖特別号」の編集がスタートする。今回は震災から20年目というこの節目に、神戸を応援すべく出版した雑誌の編集裏話をしてみたい。

  • 筆者紹介/曽我和弘廣済堂出版、あまから手帖社、TBSブリタニカと雑誌畑ばかりを歩いてきて、1999年に独立、有)クリエイターズ・ファクトリーを設立した。特に関西のグルメ誌「あまから手帖」に携わってからは食に関する執筆や講演が多く、食ブームの影の仕掛け人ともいわれている。編集の他に飲食店や食品プロデュースも行っており、2003年にはJR西日本フードサービスネットの駅開発事業に参画し、三宮駅中央コンコースや大阪駅御堂筋口の飲食店をプロデュース。関西の駅ナカブームの火付け役となった。
倒壊したビルと瓦礫の中で、
「がんばれ神戸大特集」を編集した

被災地にグルメ雑誌は必要ない⁉

神戸産の野菜

早いものであの忌まわしい地震から20年がた経つ。1995年1月17日5時46分に淡路島北部を震源とする阪神淡路大震災が発生し、神戸の街は未曽有の大惨事となった。当時としては観測史上初の震度7、死者・行方不明者は6400人を超えた。歴史を振り返ってみると、そんな事実はないのだが、なぜかしら阪神間に大きな地震は来ないと囁かれていた。それが1月17日の未明には体験したこともない大きな揺れにみまわれ、多くの家屋やビル、それに阪神高速道路までが倒壊してしまったのだ。被害状況を資料で見ると、今さらながら酷い状態だったことがわかる。こと神戸に至っては、死者が4564名、負傷者14678名、家屋被害は112925にものぼり、この死者の中には我が伯父も含まれ、家屋被害数には実家も入っている。

神戸産の野菜 当時、私は大阪ガスの系列会社であったあまから手帖社に籍を置いていた。自分自身が被災しているわけだから会社に行っている場合ではなく、ライフラインの通じていない中でその日暮らす術を探っていた。何回か会社と連絡を取ったものの、当然出社などは二の次で、淡路島、長田と被害の大きな所にあった親戚と、何とか連絡を取り合いながらも各々の安否を気遣うのが精一杯だったのである。そんな時、雑誌「あまから手帖」にも激震が走った。それは突如の休刊(事実上の廃刊)を余儀なくされたからだ。当時「あまから手帖」は毎月23日の発売だった。地震から6日もすれば1月号の発売日が訪れる。こんな状況下だから当然、出版は差し止めているだろうと思っていたら阪神間以外は大丈夫だからとの編集長判断で流通してしまったのだ。おまけにこの時の特集が神戸・元町。店が潰れてなくなっているのに、通常営業として撮影した姿が誌面の中に踊っていた。逆鱗に触れた親会社は、このことで会社を畳み、雑誌を作ることをやめさせたのだ。

神戸産の野菜

「被災地にグルメ雑誌は必要ない」。そんな言葉とともに休刊が決まっている。親会社とすれば、ライフラインが寸断され、多くの人達に迷惑をかけている時にそんな浮ついた雑誌を発刊することを憚(はばか)ったのだろう。‟休刊”の報道を聞いてびっくりしたのは社員ばかりではない。多くの読者やマスメディアが「こんな時こそ誌面を通じて応援すべきではないのか」との声を挙げ、それがうねりとなって会社に襲って来た。この時点で編集部はすでに解散させられており、社員は残っていなかった。ただ私を含め、三人のみが「雑誌を再生させるべき」と運動していたので会社にいたのだ。批判をまともにくらった当時の上層部(あまから手帖社の社長他)は、「どうしたらいい」と私に相談して来た。結論は簡単、被災地支援を目的に取材し、出版すること。上との交渉の末、残った三人で一号だけ「あまから手帖」を出すことに決まったのである。
私ひとりが編集全てを行い、私と広告担当の大田さんがスポンサーをかき集める。そして販売担当の北野さんが本屋に復刊を知らせて営業して行く。そんなコンパクトな組織で特別号づくりが始まった。

神戸産の野菜 雑誌というものはまず広告を集めて制作費を確保し、出来たものを書店で販売して収益を得る。震災直後というしんどい時期でもやはり広告を募集せねばならない。苦戦を覚悟していたものの、周囲は意外にも優しく、休刊を決定したのに存続を賭けて挑もうとしている我ら三名を応援する人達が沢山いた。アサヒビールは広告費が一番高い表4をすぐさまおさえてくれたし、ネスレ日本や三輪そうめん山本、ナスステンレス、太閤園などの広告主も続々と申し込んでくれた。サントリーに至っては当時の社長が宣伝部と広報部にいきなり「できるだけあまから手帖を支援してあげてください」とのメモ書きをまわしたらしく、宣伝担当者から「一番大きな広告枠をください」と言って来てくれた。さらに私ひとりが編集を行っている様子を見かねて、「うちの社員を派遣して手伝わせましょうか」とまで言ってくれたのだ。つきあいのあったスポンサーばかりではなく、縁がなかった岩谷産業は「取材に必要であれば」とアウトドア調理器具を無償で提供してくれたし、ハウス食品は「遅くまで頑張っているとお腹が空くはず」と事務所につまめるような食品をどっさりと送ってくれた。日頃、ライバル関係にある雑誌「ぴあ」も異例と思われる出稿(広告を載せること)に踏み切り、そのコピーに「元気一徹」と記してぴあ社員の写真とともに神戸へのエールを贈ったのである。全国誌だった「dancyu」は、「疲れ切った身体に少しでも栄養を」と私を食事に誘い、ごちそうしてくれ、「商法としてダメージを受けていないdancyuがあまから手帖が抜けた穴を攻め込むべきかもしれないが、うちはそんな卑怯なことはしたくない。あなた達が土俵に上がってくるのを待っているので、焦らず特別号を作ってください」と言ってくれた。まだまだある。この忙しい時期に事務所を引き払い、親会社の一室に移ることになったのだが、「曽我さんが大変な時だからこそ」と、吉本興業の若手芸人達が数人でやって来て事務所の引越を手伝ってくれた。こうした色んな人の善意があってこそ「あまから手帖・がんばれ神戸大特集」は、5月23日への出版にこぎつけていく。

笑顔を見せて、元気な神戸をアピールしたい

神戸産の野菜

神戸は瓦礫の町に化してしまっているので、飲食店なんてまばらである。私は以前出版した「神戸100選」をもとに、そこに載っていた店がどうなっているのかを取材した。2月の時点で、店を営業している、もしくは近いうちに再開するという店は31軒あった。その店々に連絡をし、取材する旨を伝える。ある店は簡易の発泡スチロールの器で料理を出そうとしたが、「今こそ健在を示し、元気な姿を載せるべき。通常使っていた器に盛り付けてほしい。器がなくなっているのなら私が大阪の店からでも借りてくるのでそのようにしてくれ」と言って説得した。この取材時点で、JRは住吉から神戸まで通じておらず、代替バスでの移動となる。軽い方がいいからと小さなカメラを持って来ようとしたカメラマンを叱りつけ、「背負ってでも大きなカメラを持って来て平常時と同じように撮ってほしい」と注文した。私がこの時、表したかったのは、震災にもめげず再開している姿。だからなおさら平常時と同じスタイルで誌面に載せたかったのである。

神戸産の野菜 編集して困ったことは地図の処理だった。いつもなら取材した店を地図上に点在させるわけだが、目印となる建物もなくなっており、地図内は道路を除けばまっ白け。どうしようかと悩んだが、これを思い切ってそのまま載せることにした。再開店舗は、依然と同じような姿だが、街は倒壊し、どうしようもないことをまっ白けに近い地図で表現しようと考えた。そして余白に「神戸100選」の中で、この時点で再開していなかった69軒の近況を掲載した。そこには「ビルが傾き、神戸の店は完全に駄目だが、大阪や京都の店は存在するのでそちらに行ってほしい」というのもあれば、「地震で全壊し、3月初めには更地になっていた。主人は無事との情報があり、いずれどこかでオープンしてほしいと祈るのみ」というのもある。中には「4/14より営業。神戸を代表するステーキは死んでいなかった」とエールを贈るものもあった。取材時には無理でも印刷作業中や発売日以降に再開するとの情報も細かく載せて対応している。そして特集扉を飾るのは、店主達の元気な姿。彼らの笑顔をコラージュ風にレイアウトし、そのキャッチコピーを「いらっしゃいませ!!神戸の味は元気です」と記した。

神戸産の野菜

震災後、ニュース報道はあったものの、バラエティ色の強い雑誌などは神戸を避けていた。被災者の目を気にするがあまり、さわらぬことが第一となっていたようだ。その証拠にある所からは「被災地の店取材なんてやるとどんなことを言われるかもわからないよ」との忠告があったくらいだ。こちらは当人が被災し、親戚の家や実家も潰れ、おまけに会社までなくなっている身。だからこそ被災した人の気持ちがわかるのだと、忠告を無視して取材に明け暮れた。2月から取材をスタートさせ、瓦礫の街を歩き、たった三人で広告集めから取材、編集、販売までを行うには、5月まで日がかかると踏んでいた。幸いにも5月23日の発売日前にはJRが全線開通し、大阪からの人の流れも復活した。

神戸産の野菜 新聞やテレビ、ラジオで取材の様子が流れたために予約だけで3倍もの数に達し、いつもの4倍以上の部数を刷るに至った。元気な神戸を待ち望んでいた人達は、かくも多かったのである。発売日の翌日、読売テレビのニュースの中で、私が店々を取材する姿とともに「あまから手帖・がんばれ神戸大特集」の内容が長々と特集形式でオンエアされた。そして最後に女子アナが「この本、欲しいですねぇ」と言った言葉に対し、司会者が「そうでしょ。でもないんです。全て売り切れてしまったそうですよ。編集部では復刊や第二弾を企画しているようです」と言っていた。司会者が言った通り、発売日の午前中に大半が売り切れ、いつもの4倍刷った雑誌はたちまち書店からなくなっていたのだ。
但し、一年後に復刊はしたものの、大人の事情とやらで、そのスタッフには私や大田さん、北野さんの姿がなかった。この事情については晴れて話せる日が来るかもしれない。1995年1月17日から5月23日まで私は激動の時代を過ごしていた。あれから20年、とても感慨深いものが今年の1月17日にはある。
(文/曽我和弘)

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