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湯浅氏と湯浅町

  • 2011年2月20日1000年前の湯浅城跡の古井戸 発見!

    湯浅町には、和歌山県最古の城 湯浅城が有りました。

    その城跡を復活して、いろいろな人を呼べる様に

    城跡に登れるようにしています。

    2011年2月20日 8:00より集合で行ってきました。

    今日の私のメンバーです。
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    子供達にボランティアの精神と和歌山最古の城跡の勉強にと連れてきました。

    今日は、城に登る道作りをしましたが、写真を撮るの忘れました  W ~

    この前竹藪だった所ですが、光が入って広場になりました。

    ここは、空堀跡です。  (休憩中)
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    まだまだ残っています。

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    これらを整備して行きます。

    ちなみにこの下には、井戸跡が有ります。

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    この写真の くぼみが1000年前の井戸跡です。

    夏には、堀直して水を湧かせる予定です。

    各見張り台から見た湯浅町

    湯浅城より北側

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    湯浅城より南側
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    湯浅 IC も見えます
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    湯浅城から東側 (海側)
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    湯浅町全体がちゃんと見えるんですね~

    結構良い道ができてきています。

    何年か後、湯浅の観光名所になると良いのですが、それを目指して頑張っています。

  • 2010年7月6日湯浅城の攻防   10

    湯浅醤油(有) http://www.yuasasyouyu.co.jp

    丸新本家   http://www.marushinhonke.com の新古です。

    第九章


    湯浅城の攻防


     

     文安四年(1447)の落城で、湯浅党は再起不能となり、全国各地に落ち延びた。


     しかし、それまでこの城で幾多の攻防が繰り広げられた。


     その主なものを列記すると、正平三年(1348)、足利直冬の大軍が湯浅城に攻撃を仕掛けてくる。この時、城兵は変幻自在な戦術を繰り返しながら、一旦日高に退く。


     同十四年、畠山基国の三万騎の襲撃に城兵は湯浅浜より、水軍を仕立て兵庫に難を逃れる。


     天授元年(1375)、今度は山名修理の猛攻に落城、しかし間もなく再起し、同四年、山名・細川連合軍の来襲を受ける。この時、城兵は敵の進む道に伏兵を置き、不意討をかけて敗退させる。


     止むを得ず連合軍は城を包囲し、食糧や水を絶つ持久戦に持ち込む、ところが城兵は密かに深夜に乗じて城外に去り、寄手が城に攻め込んだ時には一兵も残っていなかったと、

    『紀伊続風土記』は記す。


     この合戦より72年後の文安四年、湯浅城と城兵は、蝋燭の灯の燃え尽きるように、南朝としての使命を終えたのである。


     中世全国各地で多くの合戦が行われたが、一つの小さな山城でこれ程多くの攻防を繰返したのは珍らしく、日本城郭史上でも稀有のことと

    考える。

     今、湯浅城跡の周辺には、当時の城主湯浅九郎、楠木正親・同正友の墓といわれる自然石が残されている。また城跡の北束の小丘の雑木や羊歯の生い茂った斜面に、横穴と縦穴の比較的大きい洞窟が暗い口を開ける。


     昭和29年、湯浅町が同六十年、町文化財審議委員の和田堅一氏らが調査されたが、それによると、横穴の入□は幅1.5m、高さ1mの半月形で、人口から北洞と南洞に別かれ、南洞の奥行11m余、奥には一


     この度、写真撮影のため坂口計夫氏の同行を願って、入口から窺うと、南・北洞とも崩落の土砂で容易に中まで見ることが出来なかった。


     この横穴の10m程上部にある縦穴は、奥に十坪以上の空室があり、天井は二・五米の高さで、支洞が幾つか伸びていると、先の調査が記録する。


     現在、この洞窟は土砂崩落などの危険性があり『立入禁止』の立札が出されている。


     私は少年の頃、この洞窟に入ったが煽幅が蛸集し、不気味で奥まで進めなかった。


     往古、両洞窟は繋がり、さらに支洞が縦横に広がっていたともいわれ、或いは城兵の落ち延びる間道であったり、伏兵の密かに待ち伏せする場所であったかも知れない。謎は色々の想像を呼ぶのである。


     他に湯浅城に関わるものとして、栖原の極楽寺山門は専門家の調査の結果、簡素な四脚門ながら古風な墓股などは中世らしい技法で、史料はないが湯浅城北門の移築とも考えら

    れるという。


     なお、文安四年(1447)に湯浅氏は全国各地に四散し、地元湯浅にはその姓を名乗る者は一人もなくなった。(現在湯浅町に存住の湯浅家は中世末、河内より再び湯浅に帰

    住した。)


     しかし、中には鎌倉・室町期、その治政・武勇・戦略・築城等に高い評価を受け、各地に招かれ活躍した武将も存在した。


     一例として、室町時代備前国に入った湯浅氏は尾首城(広島県世羅町伊尾)を築き、後に毛利氏塵下に入るが、その城跡と墓地と伝えられるものが現存する。


        

       おわりに


     

    湯浅氏・湯浅党については、長い歳月の間に資料も乏しくなり、全国各地に四散した関係で未調査の部分も多く、これからの研究に待つところが多い。



     願わくば、全国各地の湯浅氏の交流を広め、心の繋がりが深められ、輝かしい先祖の活躍や盛衰・消息・資料などを交換し合い、湯浅氏の歴史を解明していくことは、祖先に対する何よりの供養と考える。


                            筆者 垣内先生

                       協賛 湯浅町・湯浅町観光協会・深専寺

                                 湯浅氏と湯浅町より                                




    私は垣内先生に時折湯浅の歴史などを勉強させていただいております。

    まだまだ、知りたいこと、知っておかなければならないことがたくさん有ると考えています。

    この資料を掲載させていただいたのは、より多くの方に、湯浅のことを知っていただきたいとの思いからです。

    何か、気にかかる事が有りましたら、ご連絡ください。

    よろしくお願いいたします。        新古敏朗

                     

  • 2010年7月6日湯浅党の衰退と落城  9

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       第八章






    湯浅党の衰退と落城





     

    鎌倉時代の末、元寇の国難を経て北條氏の衰退の兆しが現われるなか、皇権復興の機会を窺う後醍醐天皇は、倒幕の策謀を樹てるが、先手を打った幕府によって元弘二年(1332)隠岐に流刑される。



     元弘三年楠正成が一旦落城した赤坂城(大阪府)を奪回し、天王寺まで進撃する。



     この頃まで幕府軍に従っていた湯浅党は、後醍醐帝に味方するようになり、反幕運動が各地で高まりをみせ始める。



     そんな中、天皇は隠岐を脱出し、幕府滅亡とともに帰洛。念願の建武新政を樹立。積極政策を遂行する。



     しかし、公家中心の政治のため武士・農民の不満が高まり、足利尊氏が叛乱。天皇は吉野に脱出、京の朝廷に対抗して南朝を開設、南北朝時代を迎え抗戦態勢を整える。



     湯浅党は吉野護衛軍として活動し、湯浅水軍は遠く四国地方より物 質を紀ノ川を遡って吉野まで輸送した。



      吉野朝廷は、不便な山岳に位置し ながら五十七年の命脈を維持したのは、吉野の東方には北畠氏の領地伊勢があり、西方には楠木一族の河内、南には湯浅党の勢力圏があったからだといえる。



     しかし、明徳三年(2392)、南朝は力尽て、南北の和解が成立する。



      それでも、湯浅党の一部は、それを承諾せずゲリラ戦を繰返す。紀州守護となった畠山氏は、湯浅城と指戸呼の間にある名島に広城(高城)を応永七年(1400)に築き、鳥屋城(有田川町金星)・岩室城(有田市宮原)を整え、湯浅城の包囲網を作り上げたが、堅固な湯浅城を陥すのが容易なことではなかった。



     しかし、文安四年(1447)北軍の猛攻を受け、後村上天皇の皇孫義有王を初め、湯浅掃部助、楠木残党の武将は悉く戦死、湯浅残党は再びこの地で挙兵出来ないよう徹底的

    に捜索され、根絶した状態に置かれる。辛じて九死に一生を得たる者は

    各地に四散する。



     一説によると義有王は湯浅町山田より間道伝いに吉見(有田川町)まで逃げ、ここで自害したといわれ、今も円墳の小丘があり、土地では「ゆかんどの森」と呼び、大事に保

    存されている。



     湯浅町山田には「帝の跡」という、義有王ゆかりの土地も現存する。



     古戦場の湯浅城跡は、海抜七八、五米の丘陵にあり、平安時代より三百年の長い歴史を持ち、その上、鎌倉・南北両時代の城郭の特色を備える、紀州で最も古い城である。



     しかし、この「兵どもの夢のあと」の城も、戦後の農地改革で大部分は畑地に開墾され「県史蹟」の指定も解かれ、いまは横堀・横切にわずかに往時を偲ぶのみである。





                        筆者 垣内先生


                       協賛 湯浅町・湯浅町観光協会・深専寺


                              湯浅氏と湯浅町より             

     

     

    私は垣内先生に時折湯浅の歴史などを勉強させていただいております。

    まだまだ、知りたいこと、知っておかなければならないことがたくさん有ると考えています。

    この資料を掲載させていただいたのは、より多くの方に、湯浅のことを知っていただきたいとの思いからです。

    何か、気にかかる事が有りましたら、ご連絡ください。

    よろしくお願いいたします。                                  新古敏朗

     

  • 2010年7月6日京都と湯浅氏  8

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     第七章




    京都と湯浅氏





     

     湯浅氏は、神護寺に上覚や明恵を送っただけでなく、京の名刹に一族の子弟を僧として多く送り込んでいる。



     こうして入門した子弟は、湯浅氏の中央での窓口として、宗教や文化面のみならず政治経済等諸方面で、重要な役割を担ったという。



     湯浅氏は源平争乱後の、寺社の復興造営にも関与し、大きな成果をあげた。それとともに貴族や武家の屋敷の復興にも力を尽くし、諸権門と個別に深い絆を結んでいった。



     寺社造営の大事業では神護寺・東寺・静法院・寂楽寺の外、四天王寺や高野山根本大塔など地方にも手を拡げた。



     湯浅氏は平安時代末期より京の中心部四条高倉に邸宅を構えることを許され、その他光堂・押小路堀川にも屋敷が建っていた。堀川は当時、京都を貫流する加茂川とともに水の

    豊かな大川で、物資の運送の重要な拠点で、木材流通の中心地でもあった。



     湯浅氏は紀州より搬送の木材を集積する地点をここに定めていた。



     有田川や紀ノ川の上流より筏を組んで木材を運ばせ、それぞれの河口より海上を船で運送したものと考えられる。



     これらを通じて、紀伊水道や大阪湾の海上権を掌握し、時には水軍としての機能も発揮した。その上、重要な港や津・河川、土地の管理権や警察権を掌握し、次第に社会的に、

    それが承認されていったといわれる。



     承久の乱(一二二一)後、幕府は京都の政務や治安維持、公家との交渉に当る六波羅探題を強力にし、その実務を司る役として六波羅両使という役を置いたが、その任務を湯浅

    氏が担当することが多かった。



     また湯浅氏は京都に常駐する武者として、京都の治安維持を担い、洛中の辻々に舞火を焚く箸屋の任務も命じられ、紀州より交替兵を送って、その任に当った。このため京の風習や文化が湯浅付近に定着するようになった。








                                    筆者 垣内先生


                                     協賛 湯浅町・湯浅町観光協会・深専寺


             

                                                 湯浅氏と湯浅町より

    私は垣内先生に時折湯浅の歴史などを勉強させていただいております。

    まだまだ、知りたいこと、知っておかなければならないことがたくさん有ると考えています。

    この資料を掲載させていただいたのは、より多くの方に、湯浅のことを知っていただきたいとの思いからです。

    何か、気にかかる事が有りましたら、ご連絡ください。

    よろしくお願いいたします。                                      新古敏朗

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