太刀宮(たちのみや) で剣道の野試合奉納大会、餅投げ 2010年4月18日
2010年4月18日
湯浅醤油(有)
丸新本家の新古です。
道祖神社(太刀宮)の例大祭
青少年、剣友会による剣道の野試合奉納大会、餅投げが行われた。
県下唯一の青少年剣友会の野試合(4月第3日曜日)です。
御由緒
藤代より有田に抜ける道、熊野街道がある。そのけわしい坂を蕪坂(かぶらさか)と いい、その道沿いに道祖神社が祭られていた。 その昔、大阪冬の陣(1614年)のこと。宮崎城主の三男定直が真田幸村に招かれ て、大阪方面へ入城秀頼公の旗下に属するが、淀君のはからいにより、早春に出 場した。 故郷の宮崎に帰る途中、蕪坂を越し御社の神前で休んでいたところ夢を見た。 「大勢にて取り巻きく故、防がんと思うが身体自由にならず、誠に九死に一生の思 いなるところ、帯せし太刀自然と抜け出て多人数を追い回す。夢はさめ辺りを見る に死人数多く、太刀は中程より二つに折れてあり、夢なれど人の切られたのは真故、 不思議に思い折れたる太刀を繋いでみるとこれまた不思議、元の如く継げたり。先 剣の御徳を尊み、また御社の神徳を尊み『折継丸』と名付けて、その社に納め候なり」 という記述から、人々はこの社を『太刀宮』と申すようになった。現在、宮原神社社内に合祀され、多くの病気平癒等の祈願が行われている。 特にぜん息、癌の平癒の祈願が多く行われ、お礼参りに太刀を持って参るなら わしとなっている。 |
宮原神社HPより
http://www.geocities.jp/miyahara_jinjya/tachinomiya.html
この神社は、刀の奉納でも有名
試合の後のもち投げ
宮原神社
太刀宮の隣に本殿の宮原神社
本殿御由緒
御祭神の誉田別尊(ほんだわけのみこと)は、十五代応神天皇のことである。気長足姫命(おきながたらしひめ)は、九代開化天皇の曽曽孫で、 十四代仲哀天皇の皇后となり、神宮皇后(じんぐうこうごう)とよばれる。 時に筑紫国熊襲の反乱を 鎮めるため天皇と共に九州に渡られたが、 背後にある朝鮮半島の新羅国を打つことの必要を感じられ、天皇の喪を秘して海に渡り、新羅を打たれた。
帰国後に誉田別王子を出産、幼帝を擁立(ようりつ)して摂政の位につかれ、政務を執られた。比売大神(ひめのおおかみ)【多伎都姫命、市柿島姫命、多紀理姫】は天照大神のお子たちで、神功皇后が三韓への出陣に際し、この三神に戦勝祈願したといわれる。
当宮八幡大神は五十二代嵯峨天皇の御宇、弘仁七年丙申年(816年)の草創で宇佐神宮より勧請されたと伝えられている。
「文徳照臨の尊神として武運監護の霊祠なり」と古から言われ尊崇祭祀された。その頃の神領は、宮山のした、宮の前一帯に四十数町歩を領し、宮殿八宇山囲んで壮厳をきわめた。
その後争乱の世を経て、1284年(鎌倉時代)に、由良の興国寺開山法燈国師が再開眼の供養をしたといわれている。
天正十三年(1585)の豊臣秀吉の紀州攻めによって、縁起巻物や神領証文など多数没収されたため、現在宮原神社については、ほとんど不詳である。
宮原神社HPより
http://www.geocities.jp/miyahara_jinjya/goyuisho.html
アクセス http://www.geocities.jp/miyahara_jinjya/tachinomiya.html