平安・鎌倉の湯浅の文化 5
2010年7月6日
湯浅醤油(有) http://www.yuasasyouyu.co.jp
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第四章
平安・鎌倉の湯浅の文化
湯浅氏の菩提寺といわれる勝楽寺(白方宿所)の本堂は、慶長三年(1598)豊臣秀吉によって解体され、本堂の本尊薬師如来坐像と日光・月光の両脇侍、それに広目天・多聞天がともに舟で京都の醍醐寺に運ばれる。醍醐寺では本堂を「金堂」と呼栴する。この建造物は平安時代の遺構を伝える優れたものとして、現在「国宝」に指定され、この中に
安置する仏像群も「重文」指定を受けている。
勝楽寺の鐘楼(重文指定)は元禄八年(1695)広八幡神社に移され、明治五年(1872)には法蔵寺に移築される。
この他に、「白方寺」と書かれた華厳経五十八巻と「宝治二年(1248)勝楽寺」と奥書のある般若経三十八巻が、日高川町皆瀬の下阿田木神社に保存されている。従って鎌
倉時代、勝楽寺には優れた経典が多く保持し、学僧達が写経に励んだことが想像される。
勝楽寺付近の地名には現在でも、大門坂・御堂坂・踊堂・薬師堂・神部堂・地蔵田などが残り、寺域の規模の大きかったことを偲ばせる。
湯浅付近は、平安後期から鎌倉時代にかけて、先進的な文化が定着していたことを、これらのことから想像できる。これは熊野御幸を通じて京の雅な文化が地域の文化と融合し
て花開いたものであろう。
言葉などでも、専門家の調査によると「昔の上方言葉が湯浅弁に混じる」と指摘する。
方言では、湯浅付近で「大きい」ことを「ガイ」と表現する。これは「垓」の漢字を用いる数の単位で、「兆」の一万倍は「京」、京の一万倍は「垓」であり、無限大にも等しい大きさである。
現在では京言葉に「垓」は死語となっているが、湯浅方面では方言として現在も多用されているのである。
筆者 垣内先生
協賛 湯浅町・湯浅町観光協会・深専寺
湯浅氏と湯浅町より
私は垣内先生に時折湯浅の歴史などを勉強させていただいております。
まだまだ、知りたいこと、知っておかなければならないことがたくさん有ると考えています。
この資料を掲載させていただいたのは、より多くの方に、湯浅のことを知っていただきたいとの思いからです。
何か、気にかかる事が有りましたら、ご連絡ください。
よろしくお願いいたします。 新古敏朗