湯浅の甲冑 6
2010年7月6日
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第五章
湯浅の甲冑
湯浅党の活躍した武士の時代、武士の魂とまでいわれ、最ももて囃されたものに甲冑がある。即ち鎧と冑で、戦闘に戦士が身に付け防護する武具であるが、平時も武士の魂の象徴として大切に鎧櫃に保存されたり、飾られたりした。
この甲冑について南北朝時代に発行された『異制庭訓往来』によると、
「優れた甲冑を製作したのは紀伊国湯浅と洛陽(京都)」と記される。
そして「仕立の優美さと強靫さ、職人の心を尽した業は他の追随を許さない」とある。
製作が始まったのは何時頃か、明らかではないが、武士勃興の鎌倉時代、紀州最大の武士集団を結成した湯浅党の武具として需要が高まり、全国にも普及していったのではと考
える。
製作の場所は、今も地名の残る「鍛冶町」付近と推測する。
中世の終り、織田信長や豊臣秀吉の紀州侵攻に抵抗した雑賀党の「雑賀冑」。これは独特の形をして銃弾を通さぬ堅固なものといわれたが、これも湯浅で製作されたという説が
ある。
従って時代的にいつまで続いたのかは謎であるが、一時期「湯浅甲冑」は天下に聞こえたことは間違のない事実である。
江戸時代に発行された『紀伊国名所図絵』にも、「湯浅甲冑」として盛に製作されたと紹介されている。
梛(なぎ)の木と湯浅
梛は熊野の象徴の植物で神木とされる。
特に新宮の熊野速玉大社の梛の大樹は、平重盛御手植と伝え、樹齢八百年以上といわれる。古の和歌『梁塵秘抄』に 熊野出でて切目の山の梛の 葉は万の人の上被なりけり
とあり、熊野詣の帰路、切目(印南町切目)の梛の葉を笠や髪にさして信仰的感動を得る習俗が古くからあった。
平治元年(一一五九)、平清盛は熊野詣の途中、切目で源義朝らが京で戦乱をおこしたことを知り進退窮まるが、湯浅宗重らの励ましで、都に引き返し敵の討伐に成功する。
この時、一同は神木の梛の枝を各自の左袖に付け、その信仰が勝利に結びついたといわれる。
湯浅宗重は、熊野三山に深く帰依し、湯浅の各地に梛の木を植え、世の中の和ぎと、海の凪を念じた。
今も湯浅に「なぎ湾」「なぎの里」の名や、小学校の校章も榔の葉であり、宗重の心を脈々と伝えている
筆者 垣内先生
協賛 湯浅町・湯浅町観光協会・深専寺
湯浅氏と湯浅町より
私は垣内先生に時折湯浅の歴史などを勉強させていただいております。
まだまだ、知りたいこと、知っておかなければならないことがたくさん有ると考えています。
この資料を掲載させていただいたのは、より多くの方に、湯浅のことを知っていただきたいとの思いからです。
何か、気にかかる事が有りましたら、ご連絡ください。
よろしくお願いいたします。 新古敏朗
湯浅鎧や湯浅兜の
現在湯浅の甲冑は、完全品として湯浅に残っていません、後生に伝えるために 湯浅のために
お願い
情報が有りましたら、ご一報ください。