湯浅党の衰退と落城 9
2010年7月6日
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第八章
湯浅党の衰退と落城
鎌倉時代の末、元寇の国難を経て北條氏の衰退の兆しが現われるなか、皇権復興の機会を窺う後醍醐天皇は、倒幕の策謀を樹てるが、先手を打った幕府によって元弘二年(1332)隠岐に流刑される。
元弘三年楠正成が一旦落城した赤坂城(大阪府)を奪回し、天王寺まで進撃する。
この頃まで幕府軍に従っていた湯浅党は、後醍醐帝に味方するようになり、反幕運動が各地で高まりをみせ始める。
そんな中、天皇は隠岐を脱出し、幕府滅亡とともに帰洛。念願の建武新政を樹立。積極政策を遂行する。
しかし、公家中心の政治のため武士・農民の不満が高まり、足利尊氏が叛乱。天皇は吉野に脱出、京の朝廷に対抗して南朝を開設、南北朝時代を迎え抗戦態勢を整える。
湯浅党は吉野護衛軍として活動し、湯浅水軍は遠く四国地方より物 質を紀ノ川を遡って吉野まで輸送した。
吉野朝廷は、不便な山岳に位置し ながら五十七年の命脈を維持したのは、吉野の東方には北畠氏の領地伊勢があり、西方には楠木一族の河内、南には湯浅党の勢力圏があったからだといえる。
しかし、明徳三年(2392)、南朝は力尽て、南北の和解が成立する。
それでも、湯浅党の一部は、それを承諾せずゲリラ戦を繰返す。紀州守護となった畠山氏は、湯浅城と指戸呼の間にある名島に広城(高城)を応永七年(1400)に築き、鳥屋城(有田川町金星)・岩室城(有田市宮原)を整え、湯浅城の包囲網を作り上げたが、堅固な湯浅城を陥すのが容易なことではなかった。
しかし、文安四年(1447)北軍の猛攻を受け、後村上天皇の皇孫義有王を初め、湯浅掃部助、楠木残党の武将は悉く戦死、湯浅残党は再びこの地で挙兵出来ないよう徹底的
に捜索され、根絶した状態に置かれる。辛じて九死に一生を得たる者は
各地に四散する。
一説によると義有王は湯浅町山田より間道伝いに吉見(有田川町)まで逃げ、ここで自害したといわれ、今も円墳の小丘があり、土地では「ゆかんどの森」と呼び、大事に保
存されている。
湯浅町山田には「帝の跡」という、義有王ゆかりの土地も現存する。
古戦場の湯浅城跡は、海抜七八、五米の丘陵にあり、平安時代より三百年の長い歴史を持ち、その上、鎌倉・南北両時代の城郭の特色を備える、紀州で最も古い城である。
しかし、この「兵どもの夢のあと」の城も、戦後の農地改革で大部分は畑地に開墾され「県史蹟」の指定も解かれ、いまは横堀・横切にわずかに往時を偲ぶのみである。
筆者 垣内先生
協賛 湯浅町・湯浅町観光協会・深専寺
湯浅氏と湯浅町より
私は垣内先生に時折湯浅の歴史などを勉強させていただいております。
まだまだ、知りたいこと、知っておかなければならないことがたくさん有ると考えています。
この資料を掲載させていただいたのは、より多くの方に、湯浅のことを知っていただきたいとの思いからです。
何か、気にかかる事が有りましたら、ご連絡ください。
よろしくお願いいたします。 新古敏朗