湯浅氏の全盛期 3
2010年7月5日
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第二章
湯浅氏の全盛期
湯浅宗永は「藤原」姓を使っているところから、その系譜に繋がるものと推察できるが、湯浅在住より「湯浅」の地名を姓とするようになったと思われる。しかし詳細は不明である。
そして湯浅宗永の子といわれる湯浅宗重は事実上、湯浅氏の開祖であり、同家に盛運をもたらしたのである。
宗重在位の頃は、あたかも源平争覇の只中でもあった。
即ち、平治元年(1159)平治の乱が起る。この一乱は、平清盛が熊野詣のため紀州に下向した留守を見越して、京都で藤原信頼・源義朝が挙兵。その際、宗重は清盛を励まし、田辺の熊野別当湛増より兵二十駒を用立ててもらい、宗重自身は兵三十騎の手勢を率いて、清盛の護衛にあたり、京へと登った。その清盛方の迅速な処置によって勝利を得た
のである。
翌永暦元年には、比叡山の僧兵が坂本(滋賀県大津市)に立寵り合戦になろうとした時、清盛は平定の院宣を蒙り、これの鎮圧の大将に宗重を任命し、畿内近国の武士三千騎を率いて戦わせた。
こうして宗重は中央の政争の表舞台に登場するまでになる。
また紀伊にあっても、平家の重要な御家人として名が挙がり、湯浅も名邑として知られるようになる。
しかし、この平氏も清盛没後の文治元年(1185)屋島の戦に敗れ、滅びの一途を辿る。この時平家の一門、重盛の子息丹後侍従忠房が湯浅氏を頼って逃亡してくる。宗重はこれに五百騎をつけ防戦するが、文覚(宗重の子の上覚の師・明恵の師でもある)の仲介により鉾を納める。
その後、鎌倉幕府より所領が安堵され、さらに鎌倉の御家人となってゆく。源義経が兄頼朝の命を受け、平家討伐せんと西上した元暦元年(1184)頼朝が義経に送った書翰の中に「返々も湯浅の人道(宗重のこと)は、人はいかに申すとも、討たせ給ふべからず、いと惜しくし給ふべく候也」と、宗重を町重に扱うよう命じている。湯浅宗重の実力
を高く評価していたのであろう。かくして鎌倉幕府での地位も確定し、京都の重要な警備も委任される。
承久三年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府の打倒(源実朝死亡後幕府の実権は執権の北条氏に移っていた)を企画して挙兵、しかし間もなく敗北して上皇は隠岐に流された。
この時、湯浅一族では総領家の宗重の長子宗景は旗手を鮮明にせず、二男、広在住の宗正は朝廷方について滅ぼされ、宗光は鎌倉方について見事な働きをした。そのため宗光は脚光を浴び、有田川水域に広大な荘園を委され、総領家を凌ぐ勢となる。
寛喜三年(1231)湯浅景基が、その所領、栖原白上山腹に寺院を建立。当時、名僧として人々から崇められた宗重の孫に当る明恵上人に寄進。上人は京都より下向して、この寺に「施無畏」の寺号をつけ落慶法要を行った。明恵は若き頃、この白上で厳しい修行に勤んだ地で感慨深いものがあったと思われる。(明恵は病魔を押して下向したもので、帰
京後九ヶ月で死去している)
この時参集した湯浅宗光を始め、一族四十九人の連署が、いまも同寺に残されている。(重文) その殆んどが血縁関係のもので、一部姻族のものの署名があるが、承久の乱以降の、弛緩した一族の団結を強固なものにしようとし、さらなる武力集団「湯浅党」の絆を誓ったものと考えられる。
武士が勃興すると、あまりに同姓が多く混乱を避けるため、所領或いは地名をそのまま名字にする者も多かった。従って親子・兄弟でも姓が異なることも多くなる。
湯浅氏もこれに洩れず、宗重の嫡男宗景は湯浅氏を受継が、二男宗広は広氏、盛高は得田氏、宗方は糸我氏、宗光は保田氏となる。姓が変ることは、所領の拡大を意味し、有田地方では、この他に石垣・崎山・栖原・阿弓川・宮原の各氏が紀北では木本・六十谷・貴志・田中・峠田(笠田)。
紀南では芳養・本宮の各氏など紀州一円に湯浅一族が拡大するのである。
筆者 垣内先生
協賛 湯浅町・湯浅町観光協会・深専寺
湯浅氏と湯浅町より