熊野御幸と湯浅 4
2010年7月6日
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第三章
熊野御幸と湯浅
平安時代、今より千年余り前より熊野詣が盛んとなり、朝廷からは上皇などがよく参詣されたので「熊野御幸」の名で呼ばれた。
国家的行事の色彩の濃い熊野御幸であるが、この頃の熊野路は旅宿が殆んどなく、貨幣の流通も未熟で、渡河の施設もなく警備も不十分で、御幸にはそれらの準備や設営、それ
に食糧の調達が大変であったといわれる。
そんな中、平安後期、湯浅氏の台頭があり、紀伊に入ってより田辺までの警備を引受け、また湯浅の宿泊等にも責任を負った。
元永元年(1118)の白河上皇の御幸には814人の従者と馬185頭が湯浅に赴いている。
建仁元年(1201)には歌聖と敬われた藤原定家が上皇に随行した日記『後鳥羽上皇御幸記』には、京を出発して五日目の夕方湯浅に着き、入江の風景を「この湯浅入江のあたり松原勝景奇特なり」と、しばしその美しさに見入っている。また帰りには湯浅氏屋形に泊し、整った施設や接待の良さに旅の疲れも消え、とても喜び、湯浅五郎景光に栗毛の馬一頭を贈っている。この景光は宗重の孫で、当時湯浅本家に住んでいたと思われる。
この湯浅屋形ば、どの辺に存在していたのか、本家(総領家)は湯浅岩崎に住すといわれているから、現在の湯浅町の小字岩崎と思われる。
隣接に小字宮川があるが、往古ここは名の通り、山田川が音曲した入江で湯浅屋敷に接し、舟での物資の搬入などが容易な場所であったと考えられる。
また周辺には湯浅一族の屋敷や郎党の家々、さらに宿泊施設などが軒を連らね、深専寺付近の高台へと続くが、この境内周辺は上皇の仮行在所であった可能性が強く、湯浅町役場の南西に「御茶殿」と呼ばれる場所があるが、この近くまで入江であったといわれ、上皇などが御茶を召しながら風景を楽しまれたり、仮行在所にここも使われたともいわれている。
昭和五十五年、北道町の下水管埋蔵工事のため掘削中140メートル余りにわたり粘土と石灰で作られ緑泥片岩で蓋を施された排水溝と思われる施設が見つかった。これらから
推察して相当古くから進んだ生活用の設備が施されていたことが窺われるのである。
湯浅宗重の孫・明恵上人は建久六年(1195)二十三歳の時、京より栖原の白上峰に移り厳しい修行に励む。この時詠んだ歌に 糧絶へて山の東を求むとて わ町へゆかぬことぞ かなしきというのがある。食糧が尽き、山の東方へ下り托鉢に出かけたいが、その「わ町」にゆかぬ、或いはゆけぬのが、かなしいと歌う。
この白上峯の東方の「わ町」とは湯浅のことで、ここに行くと親族が多く、たくさんの食糧を提供されるが、それでは修
行にはならぬ。そのため湯浅には行けぬのがかなしいと詠む。
それと共に、この時代湯浅は既に「わ町」と呼ばれる程に町場の形態が調っていたことを想起させるのである。
湯浅の町場とともに、当時栄えたのは白方(白潟)、即ち別所・勝楽寺付近である。白潟は白い潟で、現在の勝楽寺の台地の麓まで入江となり、白い潟が続き舟の出入にも便で、その近くを熊野参詣道が通っていた。
承安二年(1172)熊野詣の吉田経房は「湯浅人道堂」に宿泊する。
入道とは湯浅宗重のことで、入道堂は宗重の庇護する御堂で、その夜は宗重より菓子の。進上を受ける。建保四年(1216)には藤原頼房は湯浅白形堂僧房に宿泊しており、承元四年(1210)には「白方宿所」において藤原長房が明恵と面談、仏教の注釈を懇望している。
これらの「入道堂」「白形堂」「白方宿所」は現在の勝楽寺、或いはその付近にあった堂と考えられる。この高台には七堂伽藍が建ち並び、廻遊庭園を備え、極楽浄土を思わせる壮大なもので、湯浅氏の菩提寺的な存在であったと思われる。
いまも勝楽寺には平安時代の定朝様式の木造阿弥陀如来坐像、鎌倉初期の慶派の木造地蔵尊像、釈迦如来坐像、薬師如来像、それに平安時代の四天王立像四躯(すべて重文)が立並び誠に圧巻で、中世の熊野詣の人々も拝したのではなかろうか。誠に平安・鎌倉の頃の湯浅の文化が凝縮され、思わず頭の下がる想いがする。
筆者 垣内先生
協賛 湯浅町・湯浅町観光協会・深専寺
湯浅氏と湯浅町より