湯浅町立山田小学校にて醤油と金山寺味噌の授業と大豆の播種
開催日 | 2018年5月16日 |
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教室内容 | 醤油と大豆の授業 播種 |
こんにちわ!丸新発酵蔵部です。
本日は湯浅町立山田小学校にて大豆の種まきの授業でした。
この大豆は、来年の醤油の仕込みの授業に使う大豆です。
これから山田小学校の生徒が先生や地域の応援団と協力して栽培していきます。
当社の社長から、まずは醤油の歴史についてのお話。
このへんの小学生は地元が金山寺味噌づくりでさかんなこともあり、食べたことある子供が多いですが、
金山寺味噌のたまりが日本のお醤油の原型だったというお話は今回の授業で初めて知った子が多いと思います。
金山寺味噌についてはこちら↓
金山寺味噌自体は760年ほどの大昔に宋(現在の中国)の金山寺からやってきたお味噌です。
ちょっと難しいお話しになりますが、金山寺味噌が和歌山で作られるようになったきっかけは、
「源実朝の暗殺」だったといわれています。
現在では日本語に漢字が当たり前ですが、
漢字は「漢」の字。元々中国大陸からきたものです。
当時の日本人はみんな中国大陸から色々な文化を学んでいました。
かねてより宋に憧れを抱いていた実朝。
1216年(健保4年)に宋の工人である陳和卿とか対面した際に、陳は「実朝の前世は医王山の長老である。」と、発言しました。
そして、それは実朝の体験した夢告と重なりました。
実朝の宋への思いは急速に膨らんでいき、渡宋を決意して唐船を建造させていますが、実朝の唐船は海に浮かぶことはありませんでした。
その後、鶴岡八幡宮にて甥の公暁により暗殺され、28歳という短い生涯を終えました。
実朝の宋の雁蕩山へ埋葬して欲しいという生前の願いを叶えるため、
実母である北条政子が高野山の僧である願生に宋で実朝の分骨をしてくれないかと依頼をします。
願生は元々、葛山五郎景倫という名の実朝の近臣だった人物で、
実朝暗殺後に高野山で出家し、名を願生と改めました。
同じく近臣であった鹿跡二郎が掘り出したという主君の頭骨を預かり、高野山にて供養に務めていた。
しかし、依頼を受けた願生は高齢だったため、その依頼を同じく高野山の僧であった心地覚心へと引き継いで渡宋を援助します。
そして宋に渡った心地覚心が修行したお寺が径山寺、そして金山寺だったのです。
径山寺では未醤(みそう、みじゃん。後の味噌の原型といわれる。)の醸造方法を、
金山寺では作られていた金山寺味噌の作り方を学びます。
そして、宋で学んだ禅、そして普化宗、尺八という文化と共に新たな発酵文化を日本にもたらし、
由良町の興国寺での民衆の教化を通じて全国に広まります。
特に湯浅の水が金山寺味噌の製造に適していたことで、湯浅でも金山寺味噌の作り方が各家庭へと広まり、
そして日常の商用品として作られるようになっていきました。
金山寺味噌は醸造なめ味噌といってそのまま食べるお味噌です。
瓜、なす、しそ、しょうが等の夏の野菜と大豆、麦、米の麹と調味料を合わせて発酵させて作ります。
夏の野菜を使うことが多いのは夏野菜の保存食だったからですね。
夏の方が日照時間が長く、野菜がたくさん採れる。その野菜を保存しておくのに金山寺味噌はとてもいい方法だったんです。
食べると甘くて美味しい金山寺味噌。もちろんお砂糖が入っていますが、
昔は砂糖が貴重だったから、伝わってきたころの金山寺味噌には砂糖は入っていなかったのでは?と推測されます。
昔の作り方というのはあまり残っていないのでわかりませんが、
おそらく砂糖が加えられ始めたのは明治時代~大正時代、日本が裕福になってきたころでしょう。
途中で醤油が生まれたり、作り方が変わったり、色々ありましたが、
伝わってきてから760年ほど経た現在でも食べられている金山寺味噌。
北条政子が供養をお願いしていなかったら、日本の味噌や醤油は少し違った経緯を
辿り、今とは違うものができていた可能性もありますね。
では、授業の様子です。
まずは新古社長による歴史と材料の説明です。
そして地域の応援団の獺口さんによる大豆の授業です。
大豆の加工品の多さに一同びっくりです。生徒のみんながわりかし知っていたのにもびっくり。
実際に大豆のたねまきをします。去年残しておいた種用の大豆を植える準備をします。
まずは種を植えるポットへ敷く枯葉探しです。
収穫完了!
土を用意して、
獺口さんから植え方を教えてもらいます。
じゃあ、植えていきます。
醤油用大豆と、枝豆用大豆、枝豆用黒豆の3種類植えていきます。
植えたら水やりです。
水をやったら新聞紙でカバーしておきます。鳥がどこかから見ていて食べに来るからですね。
カバーが終わったら、今日の授業は終了!
みんなテキパキよく頑張りました!チームワークが素晴らしかった!
大豆の芽が出るのが楽しみですね。